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江戸時代後期の絵師・俳人 酒井抱一

本日は、江戸時代後期の絵師、俳人である、酒井抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))の誕生日です。

酒井抱一は、尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった、といわれています。。

下記「目次」の「ギャラリー」の項目以下において、酒井抱一のいくつかの作品を鑑賞することができます。

酒井抱一

小学館の日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、酒井抱一について、次のように記載されています。

江戸後期の画家。名は忠因(ただなお)。通称栄八。姫路城主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれる。文芸を愛好する酒井家の血を継いで、画(え)はもちろん、俳諧(はいかい)、和歌、連歌、国学、書、さらに能、仕舞などの諸芸をたしなんだ。37歳で出家を志し、京都西本願寺の文如上人(ぶんにょしょうにん)のもとに剃髪したが、わずか十数日の滞在で江戸に戻り、翌年浅草千束(せんぞく)の庵(いおり)に移って閑居。抱一号はこのころを契機に用いられている。文政(ぶんせい)11年11月29日没。
 画業は初め狩野高信(かのうたかのぶ)から狩野風を学び、また宋紫石(そうしせき)について沈南蘋(しんなんぴん)の写生画風歌川豊春(とよはる)から浮世絵、さらに土佐派、円山派などの技法を習得、親交あった谷文晁(ぶんちょう)からも影響を受けるなど、諸派の画風を次々と学んだ。のち尾形光琳(こうりん)の作品に接して深く傾倒し、独自の立場でその作風を試み、江戸時代の装飾芸術の流派「琳派(りんぱ)」の最後を飾った。1815年(文化12)には光琳百年忌を催し、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行し、また1823年(文政6)にも『乾山(けんざん)遺墨』を編するなど、光琳あるいは乾山に対する私淑ぶりがうかがえる。また光琳筆の『風神雷神図屏風(びょうぶ)』の裏面に自らの最高傑作『夏秋草図』(重要文化財、東京国立博物館)を描き付ける。色彩豊かな光琳画の装飾性に倣いながらも、繊細優美な画風をもって豊かな叙情性を追究している。ほかに『葛秋草(くずあきくさ)図屏風』(重要文化財、HOYA株式会社)、『十二ヶ月草花図』(御物)、『秋草鶉(あきくさうずら)図屏風』など、とくに草花図の優品が多い。[村重 寧]

また、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「出家」「光琳の発見」「光琳百回忌」および「雨華庵の上人 抱一様式の確立」として次のように記載されています。

出家


寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、 兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。また、谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化するのもこの頃である。また、市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。

光琳の発見

抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えておりその作品が残っていたことも幸いしている。また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。

光琳百回忌

文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。

雨華庵の上人 抱一様式の確立

文化14年(1817年)根岸の隠居所に『大無量寿経』の「天雨妙華」から「雨華庵」の額を掲げたのと同時期、抱一の制作体制が強固になり雨華庵の工房が整えられていく。古河藩お抱えともいわれる蒔絵師原羊遊斎と組んで、抱一下絵による蒔絵制作が本格化するのもこの頃である。
「夏秋草図屏風」の通称でも広く知られる代表作の銀屏風 「風雨草花図」は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである。現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている。本作は、風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。
晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる(後述)。文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。
門人に鈴木其一、池田孤邨、酒井鶯蒲、田中抱二、山本素堂、野崎抱真らがいる。

ギャラリー

「風雨草花図」(通称:「夏秋草図屏風」)

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月に秋草図屏風(第三・四扇目)重文

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書画扇面散図 谷文晁、春木南湖、亀田鵬斎、菊池五山との寄合書 ブルックリン美術館所蔵

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雪月花図 MOA美術館

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十二か月花鳥図(三の丸尚蔵館)のうち七月(玉蜀黍朝顔に青蛙図)文政6年(1823年)

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桜図屏風(メトロポリタン美術館)

酒井抱一筆_桜図屏風-Blossoming_Cherry_Trees_MET_DP704940

(左側)

酒井抱一筆_桜図屏風-Blossoming_Cherry_Trees_MET_DP704936

(右側)

メトロポリタン美術館   https://www.metmuseum.org/


柿図屏風(メトロポリタン美術館)

酒井抱一筆_柿図屏風-The_Persimmon_Tree_MET_DT966


抱一が尾形光琳の屏風画を模写した物

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「手鑑帖」の「竹とすずめ」

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楓図(野村美術館)

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