J・M・クッツェーと寡黙さ

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(c) Akio Fujiwara


   J・M・クッツェー氏の作品群には、寡黙な人物がよく出てくる。
 無人島のロビンソー・クルーソー(「敵あるいはフォー」八六年)、癌を宣告され死期を待つ老婆に寄生する死の使いのホームレス(「鉄の時代」九〇年)、自殺した息子の足跡を追い、息子の下宿に長居するドストエフスキー(「ペテルスブルグの文豪」九四年)。
 九九年作品の「恥辱」では、レイプした主人公の娘の隣に暮らす黒人農民、ペトラスがそうだ。そして、「マイケル・K」の主人公Kも、まさに寡黙そのものだ。
 クッツェー氏はアフリカ人の沈黙をこう表現する。
 <空腹が彼らを盗む動物に変える。そして、年を取れば、何かを欲しがるということをやめる。彼の中にどんな野獣の本能が棲みついていようと、空腹がそれを沈黙に変えてしまう(略)彼は目をつぶり、心の中を空っぽにした。もう何も求めない、何かを待ち望むこともない>(「マイケル・K伝」)
 クッツェー氏の作品「敵あるいはフォー(原題Foe、一九八六年)」の女主人公が描くロビンソン・クルーソーもほとんど言葉を発しない人物として描かれている。
 反乱した船から愛人だった船長の遺体と共にボートで大海原を漂った中年女は、クルーソーとフライデーが暮らすカリブの無人島にたどり着く。クルーソーは小さな畑での耕作、わずかな収穫にしかならない狩りの日課を黙々とこなし、自分から会話を始めようとはしない。女主人公の執拗な問いかけに、渋々と相づちを打つ程度だ。

 英国に帰る気も、無人島から救出される願いもとうに失せ、日記もつけない。壁や木に時間の経過を刻む事もない。何一つ無人島での自分の足跡を残す気がないのだ。そのクルーソーが唯一、行う創造的な仕事は、段々畑の石垣積みだ。植える作物の種などないのに彼はただ、「次に種を持って島にたどり着くかも知れない人間」のためにその仕事に取り組む。それは彼のライフワークとも言える。自分が生きている間は決して報われる事のない仕事をクルーソーは黙々とこなし、毎夕、その石垣に立って海に落ちる日を見ている。

 「紙とインクをどうにかして作って、記憶の断片でもいいから書きとめられないものかしら。あなたが死んだ後も残るように。紙とインクが無理なら、木に焼き印で書いてもいい。岩に彫ったっていいじゃない」
 女主人公は「何も記録しなければ忘れてしまう」と、島に何一つ残そうとしないクルーソーにそう問いかける。
 すると彼は「何も忘れちゃいないさ、忘れてしまったことがあるとすれば、それは覚えておくほどのことじゃなかったのさ」と答える。女主人公はなおも食い下がり「あなたの本当の姿というのは、今日は何でもないことのように思えるような、そんな他愛もない幾千の事柄のうちに潜んでいるのよ」と反論する。
 だが、クルーソーは硬く節くれだった両手を開いたり閉じたりしながら「段々畑と壁が後に残る。それで充分だ。充分すぎる」と言い、再び黙りこくってしまう。

 (2005年執筆、未発表)