戦場報道のマッチョとうつ  藤原章生

 先日、高速道路のサービスエリアで何気なくCDの棚を眺めていたら、「思い出のフォークロック」という背表紙が目についた。曲目をざっと見ると、「或る日突然」などトワ・エ・モアの歌が3曲も入っていた。復古盤にしては値が高いと思いつつも買うことにした。いま音楽はネットで聴けるため、CDを買わなくなったが、きっと長旅で疲れていたのだろう。何か景気づけがほしかった。
 運転しながら早速聴いてみると、ザ・ワイルド・ワンズの「思い出の渚」の次にジローズの「戦争を知らない子供たち」が流れてきた。
 小学生の時からなじみのあるこの曲のそれまでの印象は、懐メロ番組で出演者全員が歌うざわざわした感じのものだった。だが、今回改めて原盤を聴いてみると、驚くほど新鮮に響いた。
 意外だったのは、自分の記憶よりはるかにこの曲が軽快、軽やかななことだ。イントロの部分は、なつかしの昭和歌謡といった趣のトランペットで始まり、杉田二郎の声がずいぶんと若く弾んでいる。
 それまで知らなかった3番の歌詞も素直にいいと思った。
 <青空が好きで/花びらが好きで/いつでも笑顔の/すてきな人なら/誰でも一緒に/歩いてゆこうよ/きれいな夕日が/輝く小道を>
 この曲が商店街などで流れていた1970年、私は9歳だった。当時の雰囲気、小学校でよく「光化学スモッグ注意報」が出されたのをよく覚えている。「青空が好きで」には、公害つまり弊害を無視した高度成長に背を向ける姿勢を感じる。改めて気づいたのは、曲も歌い方も、あえてお気楽な感じを前面に出しており、今の私はそこに好印象を抱いた。それは多分、戦争を語るにはお気楽でいいのではないかと、私自身が思えるようになったからだ。

 小学校高学年からフォークソング、中でも岡林信康や高田渡ら当時ではラジオでもあまり流れない歌手にまで手を伸ばしながら、この曲を敬遠してきた。それは、ある漫画の影響が大きかった。記憶では71、2年ごろなのだが、ネットで調べてみると、それは私が中学2年の75年に週刊「少年ジャンプ」で連載が始まった梶原一輝原作、川崎のぼる作画の「花も嵐も」だった。確か第一回目で、ベトナム戦争死ぬカメラマンを描いたシーンのト書きでこの歌がやゆされていたからだ。
 正確な描写は覚えていないが、こんな言葉が書かれていた。
 「戦場カメラマンがベトナム戦争の銃弾、爆撃をくぐり抜け、真実を伝えようと熱帯の地を這いずり回っているころ、日本の戦後生まれの若者たちはお気楽にも『戦争を知らない子供たち』といった軽薄な歌を歌っていた」
 言葉の脇には、たれた形のサングラスをかけた長髪の若者たちがギターを手にしている姿が描かれていた。
 「戦争を知らない子供たち」の作詞者、北山修より10歳上の1936年、昭和11年生まれの梶原氏の戦後世代と、70年当時の世相に対するいらだちの表れだったのだろうが、中学生にそんな事情はわからない。もともと「巨人の星」や「タイガーマスク」「あしたのジョー」など梶原作品の影響下で育った私が、その批判をもろに受け止めるのは無理のないことだった。
 いまでもよく覚えているくらいだから、私は梶原氏の言葉と、戦場の描写に引きつけられたのだろう。「戦争を知らない子供たち」は、現実を知らない軽薄で単細胞の若者たちがへらへらと歌ったものだと忌み嫌うようになった。子供は他愛がない。偽善や単純さ、軽さに対する嫌悪感が、漫画のたった一コマの刺激で一気に噴きだし彼を覆うようになる。

 私の祖父は父方、母方とも早世しており、戦時体験者を身近に持つことがなかった。小中学校時代に教師たちがあれこれ戦時中のことを話しはしたが、証言を直接誰かに聞くという機会のないまま育った。私が知る戦争とは、小説や歴史ものの読書に限り、実は自分が生まれるつい16年前のことでありながら、実感のないまま少青年期を送った。
 むしろ、最初に戦争を身近に感じたのは、1986年、25歳の夏に訪ねた中米のグアテマラやエルサルバドルだった。内戦中、あるいは形ばかりは内戦が終わり平和が戻っていたその地を好んで訪ねたわけではない。一人で南米にあるアンデス山脈を登りに行くため、ロサンゼルスから長距離バスを乗り継いだ際、途中下車したにすぎない。
 ところが、エルサルバドルの安宿で荷物を盗まれ、トラベラーズチェックの再発行などで現地に長居を強いられた。その時、寝食から警察への届け出、通訳と何から何まで面倒を見てくれたのが、グアテマラ出身の元ゲリラ戦士の女性だった。彼女のわずかな所持品に、迷彩服姿で走る彼女を斜め上から捉えた一枚の写真があり、その疾走感が強い残像となった。
 その秋に帰国し、エンジニアとして鉱山会社に就職したが、残像はなかなか消えず、暇をみては専門外の中米戦争を調べた。そんな中、ニカラグア内戦を描いた映画「アンダー・ファイア」(83年、米国)と、エルサルバドル内戦をドラマ化した「サルバドル/遥かなる日々」(86年、米国)を見る機会があった。いずれもフリーのカメラマンを主人公にしたもので、銃弾、遺体の山をかいくぐり単身、真相に迫っていくという、今の私から見れば、明らかにマッチョな、つまり猛々しさ、勇ましさに価値を置いたマチズモ(男性優位主義)に貫かれた作品だった。それでも、彼女を通して戦場の匂いを微かに嗅いでいた20代半ばの私には、こうした映画が報道、執筆の世界へ転進させるひとつのきっかけになった。
 新聞社に転職した私には戦場に行きたいという願望が少なからずあったが、それはやはりマッチョ的な動機に基づいたものだった。そして、偶然、幸運が重なり、私は1995年から2001年まで、新聞社のアフリカ特派員として、アパルトヘイト(人種隔離)が終わったばかりの南アフリカのヨハネスブルクに暮らすことになる。

 世界中の紛争地、戦場を周った人々が口にするように、日々の報道をする上でアフリカはもっとも危険な地域だ。一般人による暴動が突発する無秩序や、前線までのアプローチの長さなど下準備も含め非常にやっかいな場所と言える。だが、戦争報道を業とする者は住民が逃げてくるのと入れ替わりに火事場に向かうのが仕事であり、危険の度合いが高いのは当たり前のことで、それは取るに足らない些細なことと言える。
 むしろ、次の二つの事実がアフリカを強く特徴づけている。
 ポルトガル、英仏独より遅れてアフリカを手中にしようと躍起になった欧州の小国、ベルギーの国王による強引な植民地経営。それを機に広がった19世紀末の部族紛争からこの方、一度として内戦、広い意味での戦争が止んだことのない国、コンゴ民主共和国(旧ザイール)。
 1994年の3カ月間で推定80万人が、大量殺戮兵器ではなく自動小銃や手榴弾、マチェテ(蛮刀)、棍棒など手持ちの武器で殺され続けたルワンダ大虐殺。第二次世界大戦後、一国内での殺戮速度では最高記録となり、殺人手法は人類史上類を見ないものとなった。

 二つの事実から少なくともわかるのは、アフリカが遅れた前近代的な部族社会にすぎないという偏見だけではとても語れるものではないということだ。むしろ、言えるのは、戦争を引き起こすポテンシャル、「戦争能力」とでも言うべき人間のエネルギーが極めて高い土地、ということだ。
 1世紀半以上という持続性、人口わずか500万人(当時)の国で月平均26万人という殺人数。その中に身を浸し、垣間見るという形であっても戦争にかかわる報道者たちにヒロイズムなど生まれようもない。マンデラや白人傭兵など戦争当事者たちの物語はあっても、アフリカには中米を舞台にしたアメリカ映画のようなマッチョなカメラマンのお話は生まれない。生まれたとしても、それは、その地から離れた者の述懐という形で、ひどく虚脱感、無力感に覆われたものとなり、見る者に活劇的な爽快さをもたらさない。

 2001年9月11日、米同時多発テロが起きたとき、私は東京の新聞社にいた。世界のニュースを扱う部署で紙面を作る仕事をしていた。その日はたまたま人が少なく、同僚2人と晩飯を食べ終え、「きょうはずいぶん静かだな」といつになくのんびりしていたときだった。つけっぱなしにしているCNNテレビに高層ビルが映った。何だろうと思い、テレビの脇に立った瞬間、鉄板と鉄板がぶつかり合うような「パーン」という破裂音がした。2機目の旅客機がツインタワーに突き刺さった音だと後で知った。職場は大騒ぎとなり、その瞬間から私はひたすらニュースを翻訳する作業にたずさわった。
 さまざまな想像が走り回り、私は暗い気分が陥っていった。
 米軍はすぐにもアフガニスタンを攻める。国境警備を厳しくする。メキシコとの国境のように空港にも高い「壁」が築かれ、外国人はアメリカに入りづらくなる。移民大国に外国人嫌悪が広まり、ぎすぎすした時代、一度緩みかけてきた異文化への疑心暗鬼、憎しみ、差別、偏見が、サイクロンのような勢いで逆旋回してくる。
 目の前の自分の仕事をこなしながらも、私はアフリカを思っていた。そして、そのとき初めて、アフリカを書かなければならないと思った。
 アフリカで見たものが時代の奔流にかき消されてしまうという焦りもあったが、それだけではない。戦争について、あるいは戦争を引き起こし自ら巻き込まれていく人間を書かなければならないという強い義務感が突き上げてきた。そんな感覚は初めてだった。
 何かを書かねばならない、という衝動は怒りに似た感覚だった。
 翌日から私は寝る時間も惜しんで書き続け、4カ月で草稿を仕上げた。後にも先にも、あれほどの勢い、集中力でものを書けたことは一度もない。ものを書くのに必要なのは時間でも締め切りでもない。書き手を突き動かす動機、義務感なのだ。

 ところが、蓋を開けてみると、私は戦争や暴力を伴う差別、何の罪もない者をも被害者として巻き込んでいく植民地主義、外来者の偏見、先入観などについては舞台装置、背景として書いたものの、私自身が体験した、身を置いた戦争、そこで殺されかけたエピソードやひどく落ち込んだ自身の感情面については、いま振り返っても不思議なくらい巧妙に避けている。
 5年半のアフリカ滞在中、およそ半分の時間をサハラ砂漠より南、俗にブラックアフリカと呼ばれる世界で過ごした。南アフリカに暮らし始めて早々、当時はまだザイールという名だったコンゴに出張した。空港に着いた途端に、税関職員のゆすりに遭うような状態で、首都キンシャサの町には飢えが広がり、大暴動でかつてあったアメリカのゼネラル・モータースの工場は跡形もなくなり、鉄骨の太いH形鋼までむしり取られ、以前はきれいだった幹線道路の歩道橋も橋脚のコンクリートを残して材料全てが盗み取られていた。
 道路と歩道を隔てるコンクリートブロックからマンホールの蓋、何から何まで金目になるものは全て住民の手で奪い去られ、五百万人が暮らす大都市はどこも停電状態で、リンガラ音楽の本場なのに、スピーカーから何ひとつ音はせず、苦しげに眉間にしわを寄せ、官憲に強奪されるため何も持たずに歩く群衆の姿だけがそこにあった。
 それが私の最初のアフリカだった。平気なふりをしていたが、ひどくショックを受けた。これほどひどいとは思っていなかった。
 ほどなく内陸の高地で戦況が悪化し、私はその国にのべ3カ月ほど滞在し、前線を追いかけ遺体を見続ける作業に追われた。戦争と、それにともなう飢餓や難民の流出を報じたわけだが、嫌々そこにいたわけではない。やはり、最後まで植民地にならず残った未開の地、エコノミスト誌に「コンゴは国ではない。穴だ。アフリカの穴だ」とやゆされるようなコンゴを私は好きになった。一見、気のよさそうな顔をした少年たち、老若男女が何かをきっかけに突然、群集のエネルギーを発し始める。何かが発酵し始めるときの匂い、臨界点を超えた瞬間の熱の高まり、その微妙な空気の変化を私は恐れた。
 「ムズング(外人)がいるぞ!」「メルセナリ(傭兵)だ」
 誰ともなく号令がかかり、群衆の無秩序な動きに微かな法則性が生まれ、その力がど真ん中にいる異物に向かってすさまじい速さで向かっていく。幾百、幾千ものミツバチの群れがスズメバチに体当たりしを、その獲物を高熱で溶かしてしまうような人間の群れの殺戮力。だが、中にいる私はスズメバチの強靭を備えていない。まるで幼稚園に初めて連れてこられた、目を上に上げることも出来ない弱々しい小動物にすぎない。
 衣服をむしられ、殴られ、群衆の袋叩きに遭う中で感じたのは、何も武器を持たず、何の悪意もないような人間の群れの暴力、「戦争能力」の激烈さだ。私が群れに揉まれていたキンシャサの街では、同じとき、フランス人2人と中国人1人がやはりなぶり殺しに遭っている。その群れの中で死に向かう恐怖から逃れようともがいていたとき、自動小銃が立て続けに鳴り響き、群集の圧力は一気に緩み、その間隙をついて、私はよれよれになりながら、海におぼれた者が脚をもつれさせながら浜にたどり着くように、表通りに「座礁」した。首都に進軍してきたゲリラ勢が景気づけにとたまたま撃ち放った連射音に救われたのだ。

 こんな経験を何度となく重ね、そのたびに運よく死なずにすんだからだろう。私は戦場に身をおいた自分をあえて書かなかった。戦争の中にいる自分を意識すればするほど、マッチョな方向に向かっていく。私が見ている、私がここにいるのだと。だが、それを書くことの無意味さ、そこにいる自分に重きを置くことを私は極端に嫌った。ティッシュペーパーにバーナーで火をつけたように、一瞬にして燃え広がる暴動。そこに巻き込まれたよそ者は、砂漠の中のたった一つの砂粒か、森の中の枯れかけた木の葉一枚にも満たない小さな存在だ。その砂粒を描いたとして、大海原の何が変わるというのか。
 見たものを淡々と描写すればいい。自分を透明にし、ただその目で見たものを淡々と。私は早い段階で、そう思った。思わざるを得なかった。
 2001年、つかれたような執筆作業の中で、私はコンゴでの経験をほとんど書かなかった。その一冊を出したら、もうアフリカの本を書く気はなかったし、実際、その後請われても書いていない。自分が見たアフリカの中でも、決して消えてほしくない記憶をそこに留めようとしたにもかかわらず、真正面からコンゴと格闘しなかった。
 一つには、アフリカと言えば内戦、飢餓、虐殺といったステレオタイプのイメージを払拭したいという、アフリカを知る者なら誰もが抱く野心があったためだ。その三拍子が整い、一度として戦争が止まらない国のことをあえて、何も知らない日本の読者にさらす必要はないのではないかと思ったのかもしれない。
 だが今、はっきり言えるのは、そのときの私は単に戦争体験を書きたくなかったのだ。見せたくなかったのではない。書けなかったのだ。戦争を知ったことで、ナイーブで弱々しいセンサーを持っていた私は、精神面で何らかの傷を受けていたのではないかと思う。
 ある夕暮れどき、コンゴとルワンダの国境で私はひどく落ち込んだ。落ち込み、暗くなり、穴に入り込みたい、身をすっぽりどこか閉所に入れ込んで、ずっとその中に収まっていたい、とそんな気分に陥り、車の中で一人隠れていたことがあった。
 それは何年かに一度、過去にも何度か私を襲った一種のうつ状態だった。

 「あんまり、こうマッチョにしないでねっていうか、こう、わかるだろ? マッチョっぽくされちゃうと、どうもさあ……」
 私が2002年に仕上げ、4年後に運よく賞を取り出版された本、「絵はがきにされた少年」は、南アフリカのカメラマン、ジョアオ・シルバのこんなせりふで始まる。彼は後にアフガニスタンで地雷を踏み抜き、下半身を吹き飛ばされ、何とか一命を取り留めたが、今は戦場には行けない身となっている。
 「人間の混乱が見られる、ただそれだけ」。戦場に通い続ける意味について、彼は大それたことは何も語らなかった。
 照れではない。あらゆるものを見すぎた者はそうなっていく。人間にはそんな習性があるのではないだろうか。
 「本当に戦争を書き切れれば、戦争は終わる」。開高健氏はインタビューの中でそんなことを語っている。だが、戦争が終わらないのは、報道陣であれ作家であれ、人間には本来、それを書ききれないという特性を持っているのではないか、と。
  ベトナム戦争での自分の無力さに触れ、作家はこう話した。
 <もし戦場というものが(ママ)伝えることができるならば、戦争はとっくに終わっていて、二度と新しい戦争は起こらなかったはずだと思いたいんですけれども、何かしら人間の能力を超えたものがあって伝えることができないでいる。そのために、いつまでも戦争は起こり続けるということは言えると思います>(「ごぞんじ開高健」NPO法人、開高健記念会、06年12月発行、P210)
 マッチョに戦争を語ったり、その伝え手の生き死にが重んじられる段階は、戦争を伝えるはるか手前にいることを意味する。マッチョな語りは武勇伝と裏あわせで、それは戦争賛美にもつながる。
 要は無力感を経てうつ状態となり黙り込む次に何があるのか、ということだ。
 差別と同様、個人個人が何かにぶつかるか、ひたすら考えることで、戦争という人間に備わったものの無意味さを理解し、内面で拒絶していくしかないのではないだろうか。その段階にあった私は、集団を動かす主義では変えられないと、アフリカ本の中でただ個人を描いた。個人がその人生の中で、どう生き、どう変わるかを捉えようと試みた。
 戦場カメラマンをマッチョに描いた梶原一騎氏に「お気楽だ」と批判されようと、「戦争を知らない子供たち」の軽快さはマッチョの対極にある。アフリカの戦場を知ってからこの方、「帰ってきたヨッパライ」に通じる、あの軽快さ、開き直った者が胡坐をかいているような軽さが、ただ好ましい。           (「戦争の教室」月曜社、2014年に収録)