銃を頭に突きつけられて

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(C) Akio Fujiwara,  South Africa

南アフリカ日記 ①

「カチャ」というその音を今もはっきりと覚えています。私は車の運転席に座り、左隣にいる助手、チュラニという名の南アフリカの黒人男性と地図をながめていました。その朝は、遠くの村へ取材旅行をする予定だったのです。
右耳の方で「カチャ」という音がしたので振り返ると、小さなピストルが目に入りました。銃口は私の顔から50センチほどのところにあります。銃を握っているのは痩せ型のアフリカ人の若い男です。「ゲッタウト(降りろ)」。緊張した声が聞こえました。
不思議なもので怖さは全くありません。冗談か芝居と思ったくらいです。でも助手のチュラニを振り返ると彼はもう両手を耳のあたりに挙げて厳しい顔をしています。私も両手を静かに挙げました。急いで挙げると撃たれると思ったからです。なぜなら、犯人の手と銃が小刻みに震えていたからです。
 銃はプローニング社製の古い型のものでした。元々黒だった色がはげてねずみ色になっていますが、銃口はちゃんと開いており本物です。先ほどの「カチャ」という音は弾丸を込めるために銃の上部をスライドさせ撃てつと呼ばれる部分を立て「発射準備完了」にした時の音でした。
 私は小学高学年のころ、銃が大好きで、上野のアメ横でお年玉で買った金色のリボルバー式モデルガンのメッキをはがすのに必死でした。メッキをトイレ用洗剤で溶かし、色を黒く塗り、近所の町工場で銃口を開けてもらい本物に近い銃を作ろうとしていたのです。
 今でこそ「銃を持つのはよくない。卑怯だ」などとすました顔で発言していますが、小学生のころは本物の銃が欲しくて毎晩のように夢に見ていました。
 当時、1970年ごろはマカロニ・ウェスタンと呼ばれるイタリア製の西部劇が大人気でした。私は「OOの決闘」「OOのガンマン」などという題名の映画に憧れ、本物の銃が欲しくて仕方がなかったのです。
 田舎から出てきた祖母に「銃なぞ持っていると最初はハト、そのうち猫、仕舞いには人を撃ちたくなるんじゃ」などと叱られましたがそんなのは「馬の耳に念仏」です。生き物を撃つ道具にするための銃が欲しかったのではありません。ただ本物の銃が欲しい、触ってみたいという純粋な気持ちだったのです。
 でも、この目の前のチューリップ帽をかぶったアフリカの男は明らかに人を脅す道具として銃をかまえています。彼の中に「人を撃ってみたい」という気持ちがあるのでしょうか。多分ないはずです。彼は私の車が欲しいだけなのです。そう思いながら、慎重にドアを開け外に出ました。
 「ダウン!(座れ)」という叫び声がしたので草むらの中に助手と2人でしゃがみました。見ると相手は3人です。1人は私の方に銃を向けながらゆっくりと車を発車させました。「撃たれるかな」と思いましたが、聞こえたのは車の排気音だけでした。
 私が南アフリカに住み始めて4カ月目。まだアフリカのことを何も知らないころ、ダーバンという港町で起きた事件でした。

 南アフリカ日記 ②

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 (C) Akio Fujiwara,  South Africa
 背中に銃を向けられ草むらにしゃがんだ時も怖さはありませんでした。まだ芝居をしている気分だったのです。私は耳のところまで挙げていた両手を静かに下ろし、手持ち無沙汰だったので目の前の草をいじっていました。
 「ノー」。その時、隣にいた助手チュラニの小さな声がしました。彼は私よりもはるかに緊張していたのです。後で聞くと「撃たれる」と本気で思ったそうです。彼は普段、南アフリカの大都市ヨハネスブルク郊外のソウェトと呼ばれる貧民街に住んでいます。人が殺されるのは日常茶飯事のように見てきたため、すぐに死を覚悟したそうです。
 一方、日本人の私は、この国が暴力に慣れきった危険な社会であることを知りながら、いざ銃を向けられても現実ではないような夢の中にいるような気分だったのです。人が撃たれて死ぬ場面は映画やテレビで何度も見ました。だからでしょうか。自分がそんな目に遭いそうになっても、何だか他人事のようで妙に覚めていました。
 以前、高速道の交通事故で車が大回転した時、岩登りをして墜落し背中を強く打った時、雪山の急斜面を滑落した時、直後にやはり芝居をしているような、自分を別の自分が高みから見下ろしているような不思議な気分になりました。
 これを「脱身」だとか「超越錯覚」と呼び、危険時には誰もが経験することだと説明する専門家もいます。
 でも私の場合、心の中で「どうせ撃たないだろう」と相手をみくびっていた面もあります。そう。まだアフリカに対する考えが甘かったのです。
 3人組が私の車を奪い立ち去った後の助手チュラニの行動は見事でした。「ウォー」と雄たけびをあげるとYシャツを脱ぎ捨て上半身裸で通りかかった近所の車に飛び乗りました。そして南ア最大の民族ズールーの言葉で「追いかけろ」「取り返せ」と叫びながら坂を下って行ったのです。
 この辺りは彼の生まれ故郷、ダーバン郊外のウムラジと呼ばれる地区です。英語ではタウンシップ、日本語では黒人居住区と言われる、緑の丘に林道の敷かれた住宅地です。
 南アでは17世紀に欧州人が住み始め、金やダイヤモンドが見つかる19世紀後半には、都市の欧州人つまり白人と黒人は別々に住むようになっていました。地方から出稼ぎに来ていた黒人は街の外にある「タウンシップ」に住むよう仕向けられていたのです。
 ネルソン・マンデラというリーダーの登場で白人と黒人を分け隔てる法律はなくなりましたが今もタウンシップ、黒人居住区は残っています。南アに来たばかりの私は、多くの外国人の記者と同じくタウンシップに興味を持ち、助手のチュラニと一緒に彼の故郷にやってきたのでした。
 「車は必ず取り返すから」。そう言い残した小柄なチュラニが少し心配になりました。


南アフリカ日記 ③

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(C) Akio Fujiwara,  South Africa

 助手のチュラニが犯人を追いかけ立ち去ると、私はタウンシップに1人取り残されました。その時、気づいたのですが、周りには10代、20代の若い男たちがかなりいます。20人はいました。遠巻きにチラチラと私の顔をのぞき込んでいます。みな何だか嬉しそうな興奮したような顔です。その時、私の頭の中に熱いものが込み上げてくるのがわかりました。怒りです。
 何がおかしい?、外国人が銃で脅され車を強奪されたのがそんなにおかしいか。え?。自分の国、南アフリカの悪い連中が外国人をひどい目にあわせて、恥ずかしいと思わないのか。
 と、私は心の中で日本語で怒り、自分の不注意など棚に上げ、目の前の群衆に怒りをぶつけました。「あの3人の強盗は誰だ、この辺の連中か」「君たちは黙って見ていたのか」「なぜ、助けなかった」
 だが彼らは言葉を浴びる度に顔を左右に小刻みに震わせ、あらぬ方を見て逃げようとします。私が動くと群衆もそれに合わせて動き、私にまとわりついた流体物がヌメヌメと動いているようなのです。私に声をかける者はおらず、みなあのニタニタ笑いです。
 しばらく後、アフリカ中部のルワンダという国で車が逆さまになる交通事故に関わることがありました。その時も私は大破した車の脇で1人、助けを待つ立場に置かれたのですが、やはり群衆の笑いに腹が立ちました。それに、あわよくば何か盗んでやろうという子供、10歳から15歳位の男子が最もたちが悪いのですが、そんな連中から荷物を守るだけで大変でした。
 さて問題は南アフリカでの災難です。群衆に対する私の日本語の心の怒りはますます激しくなりました。
 大の男が朝から仕事もせずにブラブラして。外国人を助けもせず、一体何だ。俺はわざわざ日本から取材に来てやったんだぞ。少しは感謝して助けようという気はないのか。え?。ニタニタするんじゃない。
 群衆の顔をにらみつけていた時、ずい分前にJR新宿駅のホームで見たある光景を思い出しました。中央線の下りのホームで飛び込み自殺があった直後でした。私はたまたま反対側のホームにいたのですが、電車越しに野次馬たちの顔をまじまじと見る機会がありました。
 老若男女、赤と白のマフラーに紺のコートを着た女子高校生、クリーム色のコートのはげた中年サラリーマン・・。電車に ひかれた惨たらしい死体をのぞき込んでいるはずの彼らはみな嬉しさを抑えるようなニタニタした笑みを浮かべていたのです。
 で、その時の私は、初めて知った「人間の習性」のようなものに驚き感動し、多分私も密かな笑みを浮かべていたのかも知れません。


南アフリカ日記 ④

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 (C) Akio Fujiwara,  South Africa


 日本円、80万円で買った中古のBMWは保険金が7割くらいは戻るにしても、コンピューターとカメラが痛いなあ。カメラは私の兄が高校生の時にお年玉で買ったオリンパスのOM-1を譲り受け、仕事で使っていたものでした。
 コンピューターはNECのPC98シリーズのノート型が出た際のエプソン社の互換機で、もう丸3年も使い慣れたもので愛着がありました。特に「知子の情報」と呼ばれるデータベースのソフトにそれまで私が仕事や遊びで打った原稿が全て入っていたため、何だか積み上げてきたものを全て台無しにされたような気になりました。
 私が勤めている毎日新聞社は「自主独立」の精神が誇りで、「社員の失敗は個人の失敗。社員の成功は会社の名誉」という伝統があるのか、社員が勤務中に強盗に遭ってもその被害額を補てんしてくれることはありません。そんな甘えを許せば、社員が一個人として立派に成長できないと思っているのです。
 痛いなあ、かれこれ30万円の被害か---。群衆に囲まれながら1人、金勘定をしていると、犯人を追いかけ上半身裸で出ていった小柄の助手、チュラニが戻ってきました。フォード社製のトラックの助手席に座り、横には私が見たこともない大きなマシンガンを肩にのせたいかにも強そうな大男がいました。
 「ジャブラン・ズールー。俺の兄貴だ。もう大丈夫。あの3人はジャブラン・ズールーが捕まえてくれるよ。心配ない。車はすぐに戻る。あんな連中は半殺しだ」とチュラニは1人でまくしたてています。
 車をのぞくと、後部座席にAK47自動小銃や弾丸の詰まったガンベルト、手榴弾などが無造作に転がっています。「俺の兄貴、ジャブラン・ズールーはこの町のボスなんだ。一番強いんだ。もう何人も殺してるんだぜ」。チュラニはたいそう自慢気です。
 南アフリカには警察の下に、コミュニティー警察と呼ばれるタウンシップなど地区の犯罪を取り締まる人々がいます。マンデラ大統領が誕生した94年にできたもので、白人が政治を握っていた時代にゲリラ活動をしていた人々が現在その職についています。ジャブラン・ズールーもその1人で元は反政府活動の兵士だったのです。
 「犯人は大体、見当はついている。『俺、ジャブラン・ズールーの客人の車を盗んだ3人組がいる』と町に情報を流しておいた。連中は俺には刃向かえない。噂を聞いたらすぐに車を返しに来るさ」
 30代後半のジャブラン・ズールーは落ち着いた口調で私にそう言うと、マシンガンを持ち替え、こう付け加えました。
 「でも捕まえたら容赦しない」
 私は「車は保険に入っているし・・・あまり手荒なことは」と言おうと思いましたが、ジャブラン・ズールーがやる気満々になっているので、つい言いそびれてしまいました。
 いくらジャブラン・ズールーでも・・・、と半信半疑だった私は翌朝、本当にびっくりしました。ジャブラン・ズールーの言葉通り、車はその晩、彼の自宅のそばにきれいなまま戻されていたのです。(了)

 ( 1998年7月31日、寄稿先不明、おそらく未発表)