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緑の浸食


 「いってきます」と声をかけて、家から出た僕は空を仰ぎ見た。黒い鉄の門扉を押して、うんざりする。
 コンクリートの壁にフナの鱗のような瓦、新しめの灰色の瓦。ぼくにとって、ありきたりな、屋根の羅列。その上に見えるのは精彩を欠いたはげたペンキみたいな青空だった。
 精細を欠いているのは、空の色ではないかもしれない。

 きっと、ぼく自身だ。

 昨日が予感させる今日。
 昨日あったことと言えば、学校に行って、机に座って授業を聞き、休み時間は友達といる。いたってふつうの高校生の一日なのだと言ってしまえば終わりだけれど。
 他の高校生と違うことは、学校は限りなく受け身なのだ。まるで両親が見ているテレビを横で見ている感じだ。それは整えられた予定調和な安心できる展開。どこか緊張した平等と上っ面な良識。それを興味もなくただ横で見ている。
 ぼくと学校生活の間にはアクリル板に四方を囲まれていて、そこから外をみている。授業中先生がスピーカーで、休み時間は友達に代わり、クラスメイトの雑談が音の隙間をうめている。放課後は部活の熱気が加わる。
 またねーと呪いのような言葉をかけて、教室をでる。
 考えてみれば、帰宅しても、状況はあまりかわらず、対母親へは無視を基準としたぼくの行う一連の生活行動を滞りなくこなす点において、学校生活も変わりはない。
 「またねー」
 繰り返される、ただそれだけ。ぼくが間違いなくその場に準じれば、ときは全く問題なく流れ、一日が終わる。ぼくはある意味安定している高校生とも言える。

 そして今日の次の日。昨日の今日と別段変わりのない朝は、買ってから一度も聞くことのない目覚まし(鳴る前にふしぎとぼくは起きる)を意思のない義務感? 習慣から目を覚まして止めることから始まる。母親が用意したバランスのとれた、愛情と思わしきスパイスの食事を食べて……家を出る。

 また、みずいろの青空。定型の気象状況プラスぼく。お決まりのワンセットにこれほどうんざりするのは、なぜだろう。
 ぼくは歩く。学校へいくために。
 踏みしめる傷んだアスファルトの傍らに新しい家が建ち、駅に向かう人々の後を追う。いつもの時間に横切る三毛猫がいつものように人々躱す。少しの違いがあってもほぼ同じの定刻の通学路の風景。

 秋という季節が悪いのかも知れない。
 高すぎる空と澄み切った空気、街路樹には朱がさし、もの悲しい。寒さにどことなく気がはやるのに何も変わらない。

 それに昔から言い習わされてきたさまざまなキャッチコピー、芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋・・人を煽るようなこのコピーはぼくの意欲を減退させる。
 追い討ちをかけるような文化祭と体育祭は、くだらない学校だ、やれうざい先生だ、などというクラスメイトたちさえそわそわさせ、楽しませる。そして、いつもよりボリュームが大きくなる喧騒。
 居心地のいいクリアな空気に季節に騒音が大きすぎる。この騒々しさを消すためにはもっと強烈なファクターが必要だ。脳みそが溶けるような暑さや、手足が凍る寒さがあれば、僕の心も少しは晴れるのに。

 嫌々惰性で歩いても数分で駅にたどり着いた。五歩手前で定期を取り出し改札を通る。いつもの電車は三十秒後について目の前で扉が開いた。
 そしていつもの扉際の手すりにもたれる。
 駅までの歩調を弛めたぐらいではぼくの一日は変わらない。余裕を持たせて学校に行くので電車は空いている。人との接触はなく、互いに気分を害しない大人二人程度の間隔で電車内は落ち着いている。
 車内に背を向け窓の外へ意識を向けた。傍で見るより小さく流れる住宅街がレゴの町並みに見える。その間に人が動いていて、美しい二足歩行に感心する。窓を通してみる人は無機質だ。車が電車と同じ向きに進んでいて、ゆっくり電車が追い抜いた。街並みはすばやく後ろに流れる。
 それはいつも僕に言葉を思い出させる。

『動いているのは景色か、ぼくか』

 ぼくはじっと窓際に立っている。動いているのは電車だ。
 だだぼくはここにいる、と思う。恐ろしい速さで自転している地球にしがみついている。
 つまらない屁理屈に我ながらうんざりして、鞄の中をさぐり、スマホを忘れたことに気づいた。
 電車内の人のほぼ全てがスマホの小さな画面を覗いている。
 ぼくはすることがなくて、つり広告の目を通すが、ピンとこない。電車内の表示のディスプレイが次の駅を表示した。乗り換え線とホームのナンバーに変わり、次に事故により五分後に到着することが報じられた。電車を降りると人の量が増えた。
 乗り換える電車は都内を遊園地のモノレールみたいにぐるぐると街を廻り続ける。
 ぼくは流されるように電車に乗りかえて、『ひとまわり』することにした。
 いつも降りる高校の最寄り駅を前にしても、降りる気力が湧かなかったからだ。寝過ごしたふりをしてやり過ごす。
 駅に停まるたび人が降りて、乗ってくる。そして電車はレールの上を進む。窓の外をずっとみていた。
 この街は思ったよりも古く、そして緑がある。そして、空が狭い。
 景色は後ろへ後ろへ流れていく。
 一時間ほどを無駄にして、なぜか、学校に行く踏ん切りがついた。
 電車を降りて、反対回りの電車に移る。いつもと見分けの付かないような映像が目前を過ぎる。
 けれど一時間違うだけで、どこか違った。

 たぶん、遅刻だ。

 高校の最寄りの駅を降りて、登校するとき、ぼくは学生の波に紛れる。幾分か緊張した足取りのなかで、プレスしてあるズボンをはき、白シャツは上までボタンを止める。ぼくに何の意気込みもないが、それが楽なかたちだった。
「服装の乱れは、心の乱れ」というけれど、僕に限っては違う。母が洗い母が折目をつけたシャツとズボン。
 ただそれだけでどこか窮屈だった。
 今日は生徒もまばらで、息がしやすかった。知らない生徒が走り出したので、ぼくも走った。校門が閉じるギリギリでぼくは学校についた。


 昨日の次の日の朝も、もとの自分のルーティンには戻れなかった。むしろ、それを変更するために三十分早くおきた。体育祭の準備だなんだと母に嘘をついて早く出た。
 電車があと・・もう少しでホームに入るはずだ。駅員が線路側に進み出た。電車とすれ違いざまに帽子に触れて軽く敬礼する。停止したら、4カウントで扉が開く。三両目の一番前に腰掛けた。
 無駄がないぼくの一日の無駄な『ひとまわり』。
 この無駄は、日常になっていた。成果を求めない付き合いで入った部活や身に付かない趣味みたいな惰性と同じだと帰宅部な言い訳をした。無駄で、逸脱している感じがして、心地よい時間になった。

 いよいよぼくは下校の『ひとまわり』
もはじめた。電車マニアでもないし、街に愛着も感心もない。コンクリートのビル群をただ、見つめ続ける。
 最近は窓外の進行方向と反対に垂れ流されている景色を見つめているのではなく、連結部分の窓に反射して進行方向へ流れている外の景色を見つめている。角度によっては車内の様子を伺えるが、それはあまりしない。
 窓の外に置き去りにされる景色は、連結側の窓に流れ込む景色とは反対で、車内の隅に吸い込まれるように進行方向へ流され映される。
 絶えず角の窓枠から両外へ新しい景色があふれ出し、内側の窓枠の隙間が景色を吸い込んでいるように見えた。
 型どおりの建物と自己主張の固まりのような看板が窓の隙間にに次々と吸い込まれていく。
 それを見つめていると電車走る音が窓が街を食べている咀嚼音のように聞こえてくる。

 シャクシャクシャクシャーアー

 ぼくの中にある苛立ちが、少し解消していく。電車の中の人の流動が気にならないほど、ぼくはこの電車の角に食べられていく景色に没入していった。
 もし、コンクリートのビル群と建物だけの景色が内回りを囲んでいたら、ぼくは食べられていく景色を飽きもせず陽が落ちて自分の顔が映るまで見つめ続けていただろう。
 けれど、吸い込まれる景色が、石垣と緑に変わると、なぜか覚醒して電車を降り、自分のあるべき場所に向かってしまうのだ。


 朝、電車を降りて、反対回りすると、その何分かでまたどうしようもない憂鬱にとらわれてしまう。
 朝の場合には、高校に向かう。高校の赤い煉瓦の正門をくぐると真っ先に見えるのは噴水と創始者の胸像だ。彼に敬意を払うのは式のつく行事だけで生徒を始め教師も気を留める風はない。死してなお、男ばかりをあつめて、自分の理想像に教育してやろうなどという執念を形にされていることに同情をする。各教室に時計の代わりに飾られた立学の精神は紙切れで、有名大学の進学率をあげることに躍起なり、口にはしても実践されないのだから。
 ぼくもあの色あせた胸像と同じだ。食品のラベルみたいに、有り体の内容表示と広告名が付いてるだけで、安全の保証は何もない。
 くだらないマイナス思考が止まらない。何度打ち消しても、成長した脳が僕の命の価値と成し得ることを算出して、無駄だという解を出してしまうのだ。
 夢をもてない。

「何をしても同じだ」
ーー何の努力もしていないのに
「いつ死んでも同じだ」
ーーまだ十数年しか生きていないのに
「誰かの道を閉ざそうか」
ーー死ねさえ言えないのに

 言ったらそれだけで一歩違う道に進んでしまいそうで怖い。安易に口に出せるひとは、何か一歩踏み出している気がする。
 そんな連想が僕に行動をおこさせないのは、羞恥心と損得勘定と成し遂げられなかったとき自尊心を傷つけられるからだろう。頑張れない自分に、明らかな解が僕の前に晒されているからだ。
 ぼくが死のうと、ぼく自身は変わらず、誰を何人殺そうともぼくは何も得られないし、示せない。何も得られない。守れない。世間の意思の渦に呑み込まれて、ぼくの存在を残すどころか、ぼく自身は同じでラベルが貼り替えられるだけ。目の前にある繰り返しに努めるだけだ。
 もし変えられるそんな存在がいるとしたらそれは……

「夏目、おはよう。今日も生きてるか?」

 いきなり背中を押して、瀬波が言った。脳天気な挨拶にぼくの視界が広がり、桔平の笑顔が横にある。
 ぼくは高校生の役をする。
「おはよう。いきてるよ」
「暗いなぁ、暗すぎる。どんよりしてるとお肌に悪いぜ、美少年」
 瀬波はおちゃらけて、よく僕をビショウネンと呼んだ。不健康な肌と骨が浮き出た枝みたいな体と憂鬱な眼差しのぼくの存在が『微小』だからだそうだ。瀬波は目がいいらしい。微小なぼくが見えるのだから。
 けれどそれは全ての生徒に共通のものらしく、ぼくと目が合うとたいていの生徒は気の毒そうに目を背けるのだ。特に夏の水泳の時間はそうだった。あれはいたたまれない。

「おーい。起きたのか?」

 何の反応もないぼくに瀬波は身を少しかがめて、顔を覗き込んだ。ぼくより十五センチも高い瀬波が身をたたむようにしているのが可笑しくて思わず吹き出しながら、
「おはよう」
と言った。
 ぼくが頭の中でネガティヴスパイラルを繰り広げようが、存在微小な微小年だろうが笑うことぐらいできる。ぼくは安定した高校生なのだから。
「いつもより来るの早いじゃないか。それともぼくが遅れてるのかな」
 瀬波は遅刻せずに学校に来ることの方が珍しい。
 桔平はぼくの嫌味っぽい態度に、元気な笑顔で返した。
「ノート貸して、一限目、基礎解析だろ。芝先生って予習してないとうるさいじゃん」
「そういうことか」
「たのむ。だから少しはやく歩こ」
 瀬波は背中を押して教室に急がせた。
 教室に入って、瀬波はぼくのノートを取ると、自分の机でひたすらシャーペンをはしらせている。
「楽しそうだな」
「やなヤツ」
 本人は意識していないだろうが、宿題を忘れてきたときでさえ、それによるスリルを楽しんでいるように見えた。
 ぼくはそれを見ていると救われた。不安の中に囚われているとき、瀬波を見るだけで、現実に戻される。学校にいるときぼくがかろうじて、『ふつう』の生徒でいられるのは瀬波のおかげなのだ。

 そう、瀬波がノートを借りるのは、ぼくでなくても、他のだれでもいい。

 教室に生徒たちが増え始めた。瀬波のまわりに人が集まる。瀬波とのあいだに柵ができて離されてしまう。
「夏目ぇ、木村もノート見せて欲しいって、いい?」
「い、いよ」
 隔たれていた空間が桔平の一言でつながる。ぼくはそのタイミングについて行けずにつまってしまう。木村君も僕のぎこちなさに戸惑うように言った。
「夏目君、ありがとう」
 木村君は僕と目が合うと気まずそうにすぐに目を逸らして、瀬波の方を向いた。
「ありがたく思えよ」
 瀬波が咬み合わない雰囲気を和らげる。そしてまた空間が隔たれる。

 これもいつものことだ。

 瀬波と話す以外はこんな感じで、疎外感を感じずにはいられない。
 後ろの窓辺の席からガラス越しに校庭を眺めながら、電車の中の風景に思いを馳せる。
 次々に窓枠に食べられていくコンクリートの行方は、山奥の廃墟で蔦や苔に浸食され無惨にうち捨てられる。
マンション、工場、病院、学校、家。せめぎ合って押しつぶし合っている。その間に、蔦や幹や根が食い込んでコンクリートを蝕んでいるのだ。放置されればすぐに全て風化して壊れてしまう。
 ヒトに対する自然の逆襲。
 ぼくは自分が自然と笑みを浮かべているのを感じた。
 こんな世界、壊れてしまえばいい。
 漫然とうまれる不満が崩れていくコンクリートとともに瓦解していく。
 瀬波にはこの気持ちは解らないだろう。解って欲しくもない。ぼくと学校をつなぐものがぼくのようであってはいけない。
 教室の戸が引かれて、担任が教壇に上がり、少しヒステリックな声で何か言った。ぼくは窓から目を逸らし、夢から醒めた。

 放課後、体育祭の色別対策会議があった。
こういうものにはなるたけ参加したくなかったが、母に嘘をついた因果か、実行委員に選ばれた瀬波に道連れにされた。
 白組実行委員会、体育祭ごときで、そんなことまでと他校の生徒は思うだろう。激しく同意する。


けれどこの高校に通う生徒が白熱するそれなりの理由があって、体育祭の勝敗は朝礼の時や体育の時の日照権が決まるのだ。冬の日陰と日なたの温度は驚くほどに違うので、負けた組は勝った組が校庭にいるとき日なたを譲らなければならないのは辛いのだ。

 そんな妙に白熱した委員に僕は向かないので断ったにもかかわらず、なしくずしに。
 瀬波が一緒だからまあいいかと思っていた矢先、瀬波はリレーの話し合いに呼ばれて僕は一人で会議に出なければならなくなっていた。
 廊下の途中まで一緒だった不安そうに見つめる瀬波に「大丈夫だよ」と微笑みで安心させたが、かなりの痩せ我慢だった。
 会議室の席に着くと硬直した。普段と変わらないはずなのに、体温が下がっていくのを感じていた。
 クラスの意見を発表して、結果を瀬波に報告するだけ、ただそれだけのことなのに。
 ノイズが襲いかかってくるようで、手を組み、軽くぼくは目を閉じて、夢想に酔った。
 目前に廃墟が広がる。
 コンクリートの体を蔦が締め上げ、占領し、根を体に滑り込ませる。もう半分以上が緑に覆い尽くされて・・
肩の力が抜け、気持ちが安定してくる。
「瀬波?」
 肩に手の感触を感じて、瞼を開きながら疑いもせず言った。
「残念、瀬波じゃぁないよ。二のBの佐久間。そろそろ起きないと、会議が始まるぞ」
「ごめん。ありがとう」
 日に焼けた肌に、屈託なく笑うその笑顔に圧倒された。
「A組では、どんな作戦がでた?」
 議長の制止にざわめきがおさまったので、ぼくはクラスでまとめた意見のメモを佐久間の前に滑らせる。佐久間はそれを見て、そのメモに「やっぱありきたりな案しかでないよな」と書いてよこした。
 ぼくは微笑で答えた。佐久間はそんなぼくの顔を見て、固まった。まるで奇妙な生物を見たような顔だった。
 ぼくは、他人に困った顔か、今みたいな顔しかさせられないらしい。
 だから、嫌なんだ。誰かとこんな風に関わるのは。瀬波さえいれば、ごまかせるのに。
変化を求めているといっても僕は僕、自分の範囲から踏み出すことはできない。
 ぼくはしゃべり出した議長の方を向いた。一年からクラスごとに案を発表していく。品定めするような委員の目線に、みんな必要以上に声を上げているが、似たような案しか出てこない。
 言うことが尽きてきた一年は、「作戦は先ほど出たものと同じです。でも、やっぱ気合いッスよ」などと言って発表の単調さを防いだ。気合い論者も二・三人続くとネタ切れで、次は僕の番だ。
「気合い」などと熱くるしい事は言えないし、自分のクラスで出た案とこれまで出た案とをまとめて発表した。
 会議室にさざ波のように声があがった。
 ぼくはプレッシャーを感じて固まった。やっぱり、ぼくは順応できない。
 ぼくは早口で意見を取りまとめて発言を終わらせた。
「夏目くんが発表したように案は出そろったと思うんですが、具体的に決めていくか、親睦会みたいにしませんか?」
「おい、佐久間。お前さぼりたいんだろ」
 議長の言葉に、佐久間は笑って言った。
「みんな賛成だよな」
 拍手が教室に響いた。
 どこか瀬波に似てるのかもしれない。ほっとしてぼくは佐久間の行動力の後ろに隠れた。


 親睦会と化した会議が終わるとぼくは逃げるように荷物をまとめて会議室から出た。すると佐久間が廊下まで追いかけてきた。
「このあとファミレスいかね?」
 ぼくは佐久間の顔を見て断る理由を考えた。これ以上、一人で誰かと接していると神経がもたない。たとえ瀬波とと似ていても瀬波ではないのだから、いつぼくを不快に思い、その意志が排除に向かうかしれない。佐久間にそれほど信頼が置けなかった。
「いや、いいよ。用事が……」
「つまんねぇの」
 ここで瀬波なら強引に腕を引くなり、背を押すなりして自分の思うようにぼくを連れ出すだろう。
 けれど、佐久間は薄く微笑んだ。
「瀬波の秘密しりたくね? おともだちだから知ってるか。知ってるなら、知ってるで夏目ってすごいな」
 佐久間のまわりに『草』が生えたように見えた。いいヤツだったイメージは苛立ちとともに、がらりと印象を変えた。
「帰るよ」
 ぼくは顔をそむけて踵をかえした。
 嘲笑ともに佐久間の口から語られた『秘密』が頭から離れない。階段を駆け下り、足早に下駄箱に向かった。
 瀬波がぼくの下駄箱の前にいた。

 ……秘密。

 ぼくが知らない瀬波の秘密など、たくさんあることは、わかっている。佐久間の笑顔で口にした『秘密』が蔦のように絡みついた。
 瀬波のくもりのない笑顔のその下に、佐久間を嘲笑させる『秘密』があるなどとは思えなかった。

「今日の議事録は明日わたすよ、じゃあ」

「何が『じゃあ』だ。何かあったのか?少しつきあえよ」
 肩を組まれ、首を引っ掛けるようにしてぼくは引きずられた。
 校庭をぬけると、後ろから佐久間たちが歩いてきた。
 佐久間たちはぼくと瀬波を追い抜いた。
「仲良いなぁ」
 佐久間は追い抜き際に揶揄うように言った。
 瀬波は腕を放し、ぼくと瀬波はしばらく黙って歩いた。
 佐久間たちが一ブロック先で左折して、瀬波は言った。

「どうだ。うまくやれたか?」
「なんとか?」
「嘘つけ、しかめっ面して、議長威嚇して困らせただろ」
「なにそれ」
 訳知り顔の瀬波にぼくは声を荒げた。委員長にケンカを売った覚えはない。
「俺はなんでもよく知ってるの」
「議長なんて困らせてないよ。佐久間には世話になったけど」
「どんな」
 瀬波の声が低くなった。
「瀬波がするみたいにさ。フォローしてくれたんだよ」
 嘘は言っていない。佐久間が『秘密』をちらつかせるまでは、ぼくは感謝していた。
「何か言われたか?」
 語気を荒げる瀬波をはじめて見た。
「別に……なにも」
 肩をつかんで揺さぶられた。
「嘘だ」
「……秘密をしってるかって」

 電車に乗ってからずっと黙っている。ぼくは黙った瀬波の横に座っている。
 ぼくは窓に薄く映った瀬波を見た。車両の真ん中だったので、吸い込まれる景色は見えなかったけれど、夕暮れの空と鏡のように濃く映り始めた瀬波の顔をみていた。
 瀬波も真っ直ぐ前を見つめながら静かに言った。
「何を聞いた? 佐久間と俺が兄弟なことか? かーさんがフーゾクで働いてることか? 俺が……」
「本当に何もきいてない」
「そう…か」
 淡々と開き直って話す瀬波が夢想の中の緑のように見えた。
 瀬波が笑った。
 コンクリートを駆逐して大地に根をしっかり張り、枝を広げる。
 それに比べぼくは……
 ぼくは無言のまま最寄りの駅まで瀬波の横に座っていた。


次の朝いつものようにリビングにむかい、白いエプロンをつけた母といつもの笑顔を横目で見た。
「おはよう」
 母の唇からこぼれ出た言葉は、笑顔を歪ませ、目からは涙が溢れていた。
「おはよう」
 答えてテーブルにつき、ぼくは黙々とハムエッグを口に運びトーストをかじった。スープを口に運んでいると、母親が目の前ですすり泣いた。僕は椅子を引いて、
「いってきます」
とリビングを出て玄関にむかう。
「一日ぐらい、学校に行かなくてもいいでしょ。そばにいてよ」
 後ろから抱きついて来る母親の腕をはらってもう一度「行ってきます」といって外へでた。

 空は昨日にもまして高かった。
 母親は父親との別居した。ぼくは予兆を感じていた。
 ふと、ぼくが学校に行くのを引き留める。ぼくへの執着が増していた。母がああなる前からぼくは母を切り離していた。
 この学校へ行かせまいとする取り乱した母親は、ずっと家の外では「単身赴任をしている夫の留守を預かる妻」をうまく演じている。
 まえよりも家の中に大きな秘密ができただけで、以前とかわりない。世間的にはいい家族だ。
 父の勤めている会社、大手優良企業。そして今行っているぼくの学校とこの先行くであろう大学からはじまり、旅行、洋服、高級スーパーまで、母の理想で覆われた現実がぼくの生活だった。父はそれから逃げ出していた。
 母も家の中だけとはいえ変わったのにぼくは変わらない。
 ぼくが幼稚園に行っていた頃、手をつなぐよりだっこして欲しかった。
 いまさら母に縋り付かれても戸惑うだけだ。母はほんとにぼくをよく育てたと思う。可愛げがない。
 こんなものは、秘密ではない、日常だ。


 ぼくはいつもの席に座り、窓の隅を眺めた。
 電車が発車すると、ホームが食べられて、建物が次々と吸い込まれていく。
引きずられるコンクリートの景色の波に眩暈がした。ぼくは頭の中でそれを緑に浸食させ、街を森へと変えていく。

 ぼくもこの間隙に吸い込まれたら――甘美な妄想が僕の心の中に芽生えた。
――窓枠に吸い込まれた先には目がつぶれそうな緑が増殖している。椎・樫の原生林が目前を覆っているのだ。テカテカした葉が陽の光を吸い込み目の奥まで色を認識させた。濃密な酸素を森は育み、拘束された静寂に葉擦れのざわめきが浸透し、小川のせせらぎや高く聞こえる鳥の声が緑を装飾していった。
 ぼくはいま、コンクリートを吸い込んだ風穴にいて緑を覗いている。
 森の中を僕は進む。高く茂ったシダ類をくぐると空は葉に遮られ薄暗くなっていった。太い幹が並んでいて、地にはその根が縦横無尽に這い回り、コンクリートを捕らえていた。僕はさらに森の奥へと進んだ。
 この世界に留まっていたい。
 焦がれるように目の前にある太い幹にしがみついた。生命力の塊のような力強さに、ぼくは口づけた。根元に座り体をあずけ、枝を広げ、葉をつけているであろう天蓋を見上げた。
 ぼくはヒッと咽を鳴らして目を見開いた。
 確かに大きく広がる枝がある。葉もある。けれどその間からは蔓のようなものが何本も何本もさがっていた。それは母親の狂気に乱れた前髪のようにゆらゆらと揺れていた。
 窓の向こうの世界がぼくを隔てるように石塀が窓の隙間に流れ込んだ。
 ぼくは逃げるように電車から降りた。目の前の景色が迫ってくるように思えて吐き気を覚えた。ぼくはまえを向いて歩いてられなくて、足下を見つめた。

 アスファルト、アスファルト、アスファルト。
縁石、ブロック、ブロック、ブロック。

 ぼくが歩くけば歩くほど、足下に地面が吸い込まれていく。
 眩暈が酷くなり、緑が足下を浸食してく気がした。そしてあの大きな木から垂れ下がる何本もの蔓、あれは蔓でも蔦でもない。
きっと、気根だ。
 ぼくは意識をなくした。

 熱く湿った空気の中に、ぼくは目覚めた。瞼を開くと目の前に濡れた落ち葉があった。密な緑の香りが腐った葉の臭気と混ざって鼻腔を突く。その横には艶やかな緑シダ類の群生があり、葉の裏にはたっぷりと胞子を蓄えている。マダラ蝶が舞い、羽をやすめた。
さらに視線をずらすと、地を這う蔦をたどりながら太い木の幹から枝へ、さらに分かれた小枝のかさなり、光を閉ざしている葉の天蓋を見つめた。
 やっぱりあれは、気根だ。
 テレビで見たガジュマルのように、樫の太い幹に寄りかかるように巻き付いている木がある。よく見ればその寄りかかった幹の付け根から何本も根を下ろしている。
 この根は親木の幹を締め上げて、成長していく。

「目を離すとすぐこれなんだから」
 保健室のベットのなかで瀬波の囁きを聞いた。そして手当てされたぼくの手は瀬波に握られていた。
 せっぱ詰まったような囁きと指を一本確かめるような瀬波の手を感じながら、ぼくを求めていることを感じた。
「心配いらないよ。ぼくは秘密なんて知らない」
 ぼくは枝のような細い腕を瀬波の首に絡ませながら抱きついた。
「何も秘密なんて必要ないよ」
「……」
 瀬波は何度も頷いて、ぼくを抱きしめた。
「ぼくは、瀬波がいるだけで助けてもらってる」
「わかった」
 瀬波はどこか苦しそうに言った。

 森の幻想が僕を包む。
 ぼくの思いが瀬波を締め上げているのか、それとも瀬波の思いが思いを締め上げているのか。
 わからない。
 けれど瀬波の気持ちが、ぼくの気持ちが不快ではない。
 全て緑に食べられていく。
 根を張り、葉を広げて。

                    了 

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