黒猫はかく扉をたたく
1.
あの家をみつけたのは、本当に偶然だったのかな。
ほんの小さな選択で、その後の行き先が大きく違ってくることは、誰にだってある。
それが、偶然か必然かなんて、後になればどうでもいいことかもしれない。
あの日私は、前日に読み終えた小説の世界を引きずっていた。
きっと、半ば夢うつつだったのかもしれない。
その小説には、黒猫が出てきた。
黒猫が棲んでいるのは、古い日本家屋だ。黒光りする床を音もなく歩くらしい。
作中に散りばめられた繊細な心模様の描写に、作者の人となりを感じた。
同じ作者の作品をもっと読みたくて、大学の講義の後に図書館へ行った。
まだ読んでいない作品が、3作並んでいる。全部借りて、嬉々として外へ出た。
しばらく歩いたところで、急に辺りが暗くなってきた。見上げると、ねずみ色の雲が、風に追い立てられて走っている。それは、私の頭上にどんどん集まり、厚みを増した。
その雲が、どこか女の人の顔に見える。眉根を寄せて、ああ、泣き出しそうと思った途端に、ぽつりと雫が落ちてきた。
雨が降り出す時のほこりっぽい臭いがしたと思う間もなく、雨足は強くなる。私は慌てて、道のそばの車庫に飛び込んだ。
いつになったら止むだろうかと見上げていると、足元でチャリ……と鈴の音がする。驚いて下を向くと、そこには真っ黒な猫がいた。
「びっくりした。君も雨宿り?」
前足をきちんとそろえて座る姿は、黒ヒョウのようだ。
逃げるだろうかと思いながら、私はしゃがんで猫と目線を合わせる。
猫は動じる様子も無い。凛としたたたずまいに、気品すら感じる。その姿は、昨日まで読んでいた小説の中の黒猫を連想させた。
「君はノワールね」
すると、その猫は、耳をぴくりと動かした。目も金色の光を増したように感じた。
そして、すっくと身を起こすと、「にゃー」と鳴いた。イメージ通りの、かすかにハスキーな声だった。
私の足元に、そっとすり寄ってくる。 そのしっとりとした滑らかさは、まるでビロードの布で、ひと撫でされたみたいだ。
猫が車庫から外に出ていく。まだ雨は降っているのに、行ってしまうのかな。
ひと時の出会いに名残り惜しく思っていると、猫はこちらを振り返った。
そして、あろうことか、あごをしゃくった。
「え? 何? まさかついて来いって言うの?」
すると、もう一声「にゃー」と鳴く。
なぜかその時、信じた。
この猫は、私をどこかにつれて行こうとしている。
「ま……待って」
その証拠に、私の先を歩き、少し行くと振り返ってこちらを見る。まるでちゃんとついて来ているか、確かめているように。
そして、ある一軒の家の門を入っていった。猫は飛び石を軽やかに伝い、格子戸の前で止まる。私は滑らないように気をつけながら追いかけた。
「にゃー」と、また一声鳴く。
しばらくすると、中から人が近付く足音がして、戸が開いた。
「おかえり」
その人も黒猫かと見間違うほど、黒い服を着た長身の男の人だった。
2.
その人は猫が雨の中帰ってくるのがわかっていたからか、手にはタオルを持っている。それでふわりと包み込むと、ごしごしと拭く。
その目つきと仕草で、どれだけ可愛がっているか見てとれた。
私は思わず、大きなくしゃみをした。
その人は、顔を上げた。そして、戸口に立っている私に、気づいたようだ。
そして、私も我に返る。
全身ぬれねずみだ。それが、見ず知らずの人の家の前で何をしているのかと、恥ずかしくなった。そのままで帰ろうとした。
「あ、ちょっと待って!」
慌てて立ち上がると、その人は自分の持っているタオルを差し出して、「これは、ダメだ」と引っ込める。「こっち、入って」
そして、家の中に向かって、母さーんと呼んでいる。
私は身の置き所が無かった。
すぐに、白髪で、すらりと背の高い女性が現れた。
「まあ、あなた、ずぶぬれじゃないの!」
それからが大変だった。
入って入って、バスタオルでないとダメね、着替えを出してあげるわ、髪を乾かしなさい、ああやっぱりあったかいお風呂よ、朔也お湯をためて、大学生? 図書館の帰りね、本は濡れてない? あら、ノワちゃんのぞき見はいけないわよ、遠慮しないでゆっくりあったまりなさいね。
湯船に身を沈めながら、知らない家で、いきなりお風呂を使わせてもらってる私って、何なの? と思っていた。
「あの……ありがとうございます」
用意してもらった服に着替えて出ていく。
「あら、まだ髪が乾いてないじゃないの」
ドライヤーまで使うのは、あまりにも厚かましい気がした。
私はソファーに座らされた。女性はドライヤーを持ってくると、私の髪を乾かし始める。
「せっかくあったまったのに、また風邪引いちゃうわ」
私は成すがままになっていた。
ドライヤーの熱で、頭も首筋も温まる。おまけに、人にしてもらっている。
それは、とろんと溶けていくほど心地良かった。
大学に入って2年、地方から出てきて一人暮らしをしている。
友だちはそれなりにできたけれど、こんな風に人に甘えるのは久し振りな気がする。
「ああ、やっぱり女の子はいいわあ。こんな感じで髪を乾かしてあげるのって、してみたかったのよね」
突然、実家の母を思い出した。子どもの頃、母にこうやって髪を乾かしてもらったことがよみがえった。
「はい、終了。え? あなたどうしたの? ドライヤーが熱すぎた?」
私は知らずに、涙を流していた。
渡されたミルクティーは、ほんのり甘い。はちみつの味がする。
女性は、河野《こうの》摩耶子《まやこ》さんという。息子さんは、朔也さんというらしい。
「私は、高橋いのりといいます」
そして、信じてもらえないかもと思いつつ、猫を追いかけてこの家に来た経緯を話した。
「あら、そう。でもあの子なら不思議じゃないかもね」
摩耶子さんは、にっこり笑った。
ミルクティーを飲み終わる。
このままもっといたくなる気持ちを抑えて、カップをテーブルに置いた。
「今日は、本当にお世話になりました」
摩耶子さんは、もう少しゆっくりしていったらとか、何なら夕ご飯もいっしょにどうかと、引き留めてくれる。せっかくの好意を無下にするのは心苦しかったが、私にはもう十分だった。
「あの、初めて会った方にそこまでしていただくのは、申し訳なくて」
摩耶子さんは、「わかったわ」と言って、くふんと笑う。
「じゃあ、私がご飯を作り過ぎた時は連絡するから、またいらっしゃい」
電話番号は? メール? アドレス交換?
朔也ー! これどうやってするんだっけ?
摩耶子さんが呼ぶと、奥から「何騒いでる」と言いながら、朔也さんが出てきた。少し不機嫌そうな顔だ。摩耶子さんは気にする風でもなく、説明して携帯電話を渡している。
朔也さんは座って、私の携帯と合わせてささっと操作すると、摩耶子さんに返す。
「いい加減、覚えて」
「いいじゃないの。わからなくても、こうしてやってもらえるし」
摩耶子さんは、ねーっと、小首を傾げて私に同意を求める。
「あ、あの、はい」
「ほら、困ってるだろ」
「だあって、それを覚えてる間に、もっとしたいことあるもん」
私は驚いた。ほほをふくらませた摩耶子さんは、駄々っ子みたいだ。
「あ、摩耶子さんは大人の顔してるけど、違うからね」
「あー、朔也だってそうでしょ。いまだにピーマン食べられないじゃないの」
「はあ? それ、次元が低過ぎだろ」
今度は朔也さんの方が、ムキになっている。
こんな風に言い合いながら、毎日過ごしているのだろうか。
私は笑いがこみ上げてきた。
気が付くと、摩耶子さんが私を見て、微笑んでいる。
「いのりちゃん、やっと笑った。笑った方がいいわ」
そうか。
近頃の私は、感情の起伏が無かったかもしれない。
大したことではない。
ゼミの仲間で食事に行った。
始めは和やかに話していたのに、途中から欠席した人の悪口になった。私も休めばこんな風に言われるのかな。
見えないもの、聞こえないものは、気にかけなくていい。
時間とお金を無駄にしている。
出席しても浮かないように合わせて、何て相槌打ったらいい? って、気を遣ってばかりだ。結局、帰ったらどっと疲れて、後悔することになる。
それでも繋がっていたい。大学で孤独になるのは、嫌だった。
いつしか、心から笑ったりすることを忘れていた気がする。
そんなことを今ここで言うつもりはないけれど。
そういう想いがよぎり、やっと浮かんだ笑顔は、曖昧にぼやけていった。
その時、くるぶしの辺りをするりと撫でるものがあった。
「ひゃん」
思わず変な声が出る。黒猫だった。しっぽで撫でられた。
いつの間に傍にいたのかな。鈴の音さえしなかったのに。
「こーら、いのりちゃんがびっくりしてるでしょ」
「にゃーん」
猫は一声鳴いて、じっと私を見る。
「え? 何か言いたいの?」
そんなもの言いたげな目つきをしている。
「別に、笑いたくない時は、笑わなくていい」
ハッとして、顔を上げる。
言ったのは、朔也さんだ。
「私のことを知ってるんですか?」
朔也さんは、眉を上げてとぼける。
「君の事情など、知らない。ノワールの言いたいことを代弁したまでだ。それに反対のことも言える。笑いたい時は、笑えばいい」
そんなことは、わかっている。それができないから……。
「それができないから、悩むんじゃないの。みんなはね、朔也みたいに強くないのよ」
摩耶子さんも言う。
話をしなくてもだいたい察しがつくほど、ありそうなことなんだ。
こじらせているのは、私だ。同じところをぐるぐる回っているから、糸が絡む。
もっとシンプルに生きればいいのかな。
朔也さんが言った言葉が、もつれた心をほぐしてくれる気がした。
3.
玄関でスニーカーを履こうとすると、新聞紙が丸めて詰めてあった。
確かに、ずぶ濡れだったのだ。
「ありがとうございます。ここまでしてくださって」
摩耶子さんは、新聞紙を受け取り、にっと笑う。
「あら、私じゃないわよ」
朔也さんがしてくれたと知って驚き、尚更恐縮した。
上着を羽織って奥から出てきた朔也さんに、お礼を言う。
「あ、いや、その、あ……そのまま履いたら気持ちが悪いだろうと思って。勝手に靴に触って悪かった」
「勝手にだなんて、そんなこと、えっと思わないです」
お互いに、もごもごと言い合った
道がわかりにくいから送っていきなさいと、摩耶子さんが朔也さんに言う。
「多分、わかると思うので、いいです」
私は断ったが、実はわかるかどうかは、自信がない。
「でも、来た時って、ノワちゃんについて来たから、覚えてないんじゃない?」
図星だった。何でも見透かされてしまう。
私は困った顔をしていたのだろう。
「やっぱりそうね。ほら、朔也」
駅まで送ってもらう事になった。
「近いうちに連絡するから、また来てね」
「はい。必ず来ます。今日はお世話になりました」
摩耶子さんに見送られて、外に出る。
雨は止んでいた。
既に日は沈み、西の空には赤い雲だけが残っていた。
来た時のように、飛び石に気を付けて歩き、門を出る。
もう一度振り返り、確認する。家は、こじんまりとした古い日本家屋だ。数寄屋造りと言うのかな。門柱には「河野」と表札が掛かっている。
「何をしげしげと眺めてる」
「次に来る時、間違えないようにって、確認です。ああ……でもじろじろと見られたら、嫌ですよね」
「いや、別にいいけど」
それから、こちらも確認しておかないと。
「あの、摩耶子さんに誘われましたけど、また来ていいですか?」
「どうぞ。けっこう料理は上手いから、期待していいよ」
「そうなんですか。楽しみにしてます」
駅までは、何分ぐらいだろう。
町の様子も観察しながら歩く。
「この道に入ってくれば、わかるから。ちょっと斜めになってるから、間違えないで」
朔也さんは時折、ポイントを教えてくれる。
始め、送ってもらうのを断ったのは、よく知らない男の人と2人で歩いたら、気まずいだろうと思ったからだ。けれど、なぜか気にならなかった。
「あの、高橋いのりといいます」
「ああ、聞いた」
他にも、自分に関する個人情報を告げ、尚も続けようとすると制される。
「わかった、もういいって」
「あの、でも」
「ノワールが連れて来たんだ。信用する」
摩耶子さんも、同じようなことを言っていた。
「猫は好きか?」
「はい。好きです、大好きです」
「それなら、いい」
口調が柔らかくなったので顔を見ると、目元が優しかった。
角を曲がると、駅が見えた。
「ありがとうございました。もう、ここで構いません」
「じゃあ、気をつけて」
朔也さんは、元来た道を帰って行く。
右肩が少し上がっているように見えた。
そう言えば、ノワールって、小説に出てくる猫と同じ名前だ。
「黒」って意味だものね。黒猫にありがちな名前だわ。
そう軽く思いながら、駅舎に入っていった。
いつも使う構内を見て、ほっとした。
心のどこかで思っていたのかもしれない。
今日の出来事が、どこか絵空事のようだったと。
4.
摩耶子さんから電話がかかってきたのは、次の日だった。
「おはよう。ねえ、今日は? 講義は何限目?」
講義は3限で終わる。でも、借りた着替えの洗濯はしたが、まだ乾いていない。アイロンもかけたい。
「そんなの、いつだっていいの。ね、ナッツたっぷりのケーキを焼いたのよ。スパイシーなチャイが合うと思うのよね」
そんな魅惑的な誘いに、抗えるわけがない。
駅を出ると、昨日教えてもらった道を進む。
分岐点では、目印を覚えていたつもりだった。けれど、やはり昼と夜では見え方が違う。
「んー、よし、右だ」
すると、鈴の音がチリリと聞こえた。塀の上に黒猫がいる。
「あ、ノワール」
すたっと、目の前に飛び降りる。そして、左の方に歩き出した。
「ここを左でしたか」
ついて行くのはいいが、また道を覚えられなくなってしまう。
後ろを追いつつも、キョロキョロと周りも確認した。
見覚えのある門にたどり着く。「河野」と表札もある。
夢じゃなかったと、心が躍った。
「ごめんくださーい、高橋です」
戸を開けてくれたのは、朔也さんだった。
「いらっしゃい」
ぶっきらぼうにそう言うと、自分はさっさと中に入ってしまう。
私はその後を「おじゃましまーす」と言いながら入る。
格子戸を閉める直前に、するりとノワールが入ってきた。
改めて「こんにちは」と挨拶する。
ノワールはこちらをくっと見ると「にゃーん」と鳴いた。
それから、何度も摩耶子さんから連絡があった。
「とろとろのあんこを煮たの。できたてのどら焼きを食べられるわよ」
「パイ生地サクサクの、焼き立てのアップルパイって、食べたことある?」
そこでしか食べられないものをどうしてこんなに知っているんだろう。
当然、返事は「YES」しかない。
摩耶子さんは、元は国際線のCAだったらしい。旅行が趣味で、外国の話をしてくださる。好奇心の塊のような人で、話題が豊富で尽きなかった。
家は新しくはなかったが、欄間や窓枠に凝った趣向がうかがえる。丁寧にセンス良く暮らしているのがよくわかった。そして懐かしい気分になる。そう伝えると、
「今どきの若い人が、古民家をリノベーションした付け焼刃じゃないのよ。家も人も、ほんとに年季が入ってるんだから」
と、摩耶子さんはころころ笑った。
ノワールに会えるのも嬉しかった。
私は猫好きだけれど、アパートはペット禁止だったから。
ノワールは私が行くと、「また来たの?」という態度でスーッと横切る。素知らぬ風を装ってはいるけれど、気にしているのは見え見えだった。私が摩耶子さんのスイーツに目が無いのと同じで、猫好きの罠に引っかからないはずがない。
私が指をチラチラ動かすだけで、顔をすり寄らせてくる。時にはザラリとした舌で、なめたりする。そしていつしか、私の傍で丸まっている。
朔也さんはそのノワールそっくりだった。
不愛想に、中に入れてくれる。しばらくすると顔を出し「また甘い物につられてきた」と憎まれ口をたたく。話に、茶々を入れるというパターンだった。
平日に家に居る。
何をしている人だろうと興味が湧いた。
摩耶子さんに聞いてみる。
すうっと目を細めると、「小説家よ」という答えが返ってきた。
「河野朔也さんて作家さんは……」
「一応、ペンネームで書いてるわ」
「ああ、そうですよね」
誰だろうと考えを巡らす。
「最近好きな作家さんがいて、その人の作品ばかり探して読んでいるんです。この家の雰囲気によく似ていて、黒猫が出てくる話もあるんです」
だから、この家に初めて来た日もノワールについてきてしまったと話す。
「何ていう名前の人?」
「佐久間幸っていうんです。幸せって書いてコウって読むんですけど」
摩耶子さんが笑い出す。
「心情の描写が特にいいんです。叙情的すぎて、女々しいところもあるけど」
摩耶子さんはお腹を抱えて大笑いしている。そこまで笑われるのは心外だった。
「私の好きな作家さんなのに、そんなに笑うなんてひどいです。」
「ごめんごめん。だって、ねえ朔也」
朔也さんを見ると、いつにも増して、ぶすっとしている。
「まさか、佐久間幸って、朔也さんですか」
ペンネームは、名字と名前の読みを反対にしただけだった。
「ああ、だからなんだ」
この家に感じる既視感は、作品で読んでいるからだと納得する。
「ごめんなさい! 女々しいなんて言って」
「……いいよ、別に」
摩耶子さんの笑いがぶり返した。
朔也さんが佐久間幸だとわかってからは、ぶっきらぼうな物言いも気にならなくなった。
それは、不思議な感覚だった。
この人の感じ方や考え方をわかっている。それは、話して得られるよりもずっと深い関わり方のように思う。
反対に朔也さんは、手の内を知られたようで、分が悪くなったと思っているようだった。
5.
いつものように訪れると、摩耶子さんが旅支度をしていた。
「明日からパタゴニアなの」
元CAは、世界中にお友だちがいる。
リビングの本を借りようと手に取る。
その間に、一枚の写真がはさんであった。
そこに写っているのは、朔也さんと知らない女性だった。仲睦まじそうだ。
朔也さんが微笑んでいる。いつもノワールを見る時に見せる表情だ。
それだけで、この人をどれほど想っているかわかる。
その時、スッと写真が取り上げられた。朔也さんだった。
「か、彼女さんですか? きれいな方ですね」
朔也さんの表情は硬く、感情が読み取れない。
「彼女とはもう別れた」
「その人は今、どこにいるんですか」
朔也さんはボソッと呟く。
「……結婚して、この町にはいない」
「なぜ引き止めなかったんですか」
「気持ちが離れたから別れた。それだけだ」
何があったかは知らない。
でも、あんなに愛しそうな眼差しだったのに、その言い方が気にかかった。
「自分の恋をそんな風に吐き捨てるように言わないでください」
「何も知らない君に、俺の何がわかる」
「わかります。作品を読めばわかります。作品はあなたの心の核です」
朔也さんは押し黙る。拒絶されたと思った。
家を後にした。
帰ってから、酷く後悔した。
何を踏み込んで言ってしまったのかと、胸をかきむしるほどいたたまれなかった。ここしばらくで、仲良くなったつもりでいた自分が恥ずかしかった。
次の日、朔也さんを訪ねたけれど、返事が無かった。
車庫に車はある。もしかして、家に居て迷惑に思っているのだろうか。
このままこじれてしまうのは嫌だった。
この家で過ごした時間は、かけがえのないひとときだ。
私はもう一度声を出す。
「顔を見せてください。謝りたいんです。あなたを失いたくないんです」
言いながら、自分の気持ちに気付いていった。諦めたくない。
「もうこんなに好きなのに、今更戻れないです。会わなかった時になんて、何も無かった事になんてできないです」
「まだ何も始まってないのに、終わりにしたくないんです」
後ろで、チャリ……と鈴の音がした。振り向くと、ノワールと朔也さんがいる。
「何を人んちの前でわめいている」
「え? 中に居るとばっかり……」
見れば、コンビニの袋を下げている。
朔也さんは鍵を開け、戸をガラリと開けてこちらを見る。
「もうとっくに、始まってる」
始まってる?
何が?
ノワールが「にゃーん」と鳴く。
私は、さっき自分が言った事を思い出した。
「え? ああ!」
その場にへたり込む。
「しょうがないな」
朔也さんは私の手を取り立ち上げてくれる。
そうだ。あの日も戸口でノワールは私を見上げて鳴いた。そして私をじっと見た。まるで、今から運命の扉を開けるよとでも言うように。
そして今、私は自分で扉を開けたと感じた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?