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想いは積もる雪のごとく

 遥か遠くに雪を被った山が見える。夕陽を受けて、薄赤く光る山肌。手前の山に雪が無いので、中空に浮かぶ山波。

 私は洗濯物を取り込んでいた手を止め、その眺めに見とれる。どれくらい積もっているのか。若い頃スキーをした時に見た、青空の下の雪原を思い起こす。

 いつもなら、この時期は木枯らしが吹き、陰鬱な鉛色の雲が垂れこめているのに。
 いいの。降らないならそのままで。その方が穏やかで過ごしやすいから。
 ぶるっと寒気を感じる。陽が沈んで冷えてきた。かごを中に入れ、サッシを閉めた。
 
 
    ノートの罫線とにらめっこをして、かなりの時間がたっていた。今年の童話大賞に応募しようと、ここ数日頭を捻っている。書き出しがピンとこない。諦めて立ち上がる。
 
   肉じゃがの味見をして、サラダの野菜を刻む。もう一度集中しようと椅子に座った途端、インターホンが鳴る。モニター画面に映るのは、息子の薫の姿。「おかえり」と言うと、「ただいまー」と返る元気な声。
   帰って来てほっとする気持ちの奥底で、また創作はおあずけと、残念に思う。
「お腹すいたー。今日のご飯、何?」
「肉じゃが。少し食べる?」
「食べる、食べる!」

 ほくほくのじゃがいもを薫は、はふはふと口の中で転がしている。
   毎日料理を作るのはこの顔を見るため。
   私はそれで良かった。

 
   前に書いた童話をネット小説投稿サイトで公開してみた。どれだけの反応があるだろうかと期待し、どきどきした。
    けれど、しばらくしても、読まれている気配が無い。一介の主婦が、投稿した途端、絶賛されるとでも思っていたのか。そんな自分が可笑しかった。

    ある日、そのサイトのアイコンに、赤い丸の表示があった。何だろうと開いてみた。

『私は、篠原顕と申します。樋口さんの作品を拝読しました。きめ細やかな描写で、月の光に照らされた雪の原が目に浮かびます。冬の話なのに温かいですね。不躾とは存じますが、私にその絵を描かせてもらえませんか』

 篠原さんは東京に住む新進のイラストレーターだった。お仕事では、グラフィックデザインをしているようだ。私より、年下だ。

『願ってもないお申し出に、喜んでいます。私の頭の中だけに広がっていた雪原が絵になるなんて、感激です』

 それからメールで打ち合わせをするようになった。

『月はくっきり描きますか?』
『そうですね。冬の月は、凛として清かですね。でも暈がかかった月も好きなんです』
『ああ、絵になりますね。光がぼわっと広がって滲んだような』
『そうです。世界を包み込むような』

 メールでのやりとりは、だんだん雑談も混ざるようになった。その日あったこと。見て感じたこと。その日食べた物のこと。

    彼の感覚は、驚くほど私と似通っている。
『もしかして私に話を合わせていませんか』
『そんなことはありませんよ。あなたこそ、僕に合わせているのではないですか』

    読んだ本のことを話題にすると、篠原さんもその本を読んでいた。他の本でも読んだ本が共通していて、感想を言い合った。感想を語り合うなど、久しぶりだった。違う感想があっても、新鮮で納得できた。

   こんな感覚は、初めてだった。
   遠く離れた場所にいるのが信じられないくらいだ。いつしか、赤い丸の表示が付くのを楽しみにしていた。

 もちろん、作品のことも話した。

『話の中で近道だからと雪の上を歩いていますが本当ですか? 足が埋まりませんか?』
 雪があまり積もらない場所に住む篠原さんは、体験したことがないのだろう。
『雪の表面が凍るのです。でも、雪が降る日には歩けないのです』
『どうしてですか』
『晴れると雪原の表面が融けます。翌朝まで晴れるような天気だと、放射冷却で気温が一段と下がります。その時に歩けるのです』
『宮澤賢治の「雪渡り」にありますね。あれは物語の中だけのことだと思っていました。子どもしか雪の上を歩けないのですか』
『いいえ。大人でも大丈夫です』
『歩いてみたいなあ。どんな気分ですか』
『いつもは歩けない田んぼや畑の上がなだらかに一続きになります。始めは恐る恐る確かめながら歩きます。そのうち、大胆になってきます。不可能なことが、無限に可能になった気分になります。そこが雪の上だということを忘れて走り回ります。そして気を抜いた頃に、ずぼっと足が埋まります』
『え、埋まるんですか』
『はい、油断大敵です。表面は雪が氷の粒状になっているので、月の光でも朝日に照らされても、きらきらと輝くのです。まるで、水晶の粒を敷き詰めたみたいなのです』
『ああ、その様子を描いてみたい』
『私の説明で伝わりますか』
『もちろんです。目の前で映像を見ている気分です。繊細でイメージが湧きます』

 
   そして、次の夜のことだった。やけに冷えるので暖房の温度を上げる。家事を終えて腰を下ろす。   ノートを広げると、スラスラと文章が浮かぶ。今日こそ作品が仕上がりそうだ。

   私はその事を報告する。
『今日は、創作意欲が湧いています。新作ができ上がりそうです』
   すると、スマホに通知が届いた。

『では、ご褒美にプレゼントです。絵の色を着けています。イメージに合っているかどうか、見てもらえますか』
『はい。とうとう見られるのですね』
『電話でもいいですか? 色をいろいろと変えてみますので、指示をしてください』

 電話……? それは、ちょっととためらいかけて、例えば消費者窓口に電話をかけることだってある。深く考えなくてもと思い切る。
『はい、わかりました。どうぞ』
 そう返信したのに、そわそわと落ち着かない。ほどなくして、コール音が鳴る。

「……はい」と出ると「篠原です」と緊張した声が聞こえた。私も名乗ると「思ったよりも高い声ですね」と言われる。私も緊張して上ずっているのかもしれない。

    パソコンに送られたデータを開くと、画面には青い雪原が広がった。空から銀の月が、神秘的な光を注ぐ。
「ああ! これだわ。この景色。私の頭の中にある映像そのものです」
「それは、良かった。色はどう? もう少し明るくしてみる?」
「ううん、これで。このままでいいです」
「気に入ってもらえて、ほっとした」
「はい、嬉しい。挿し絵にしますね」
「ふふ。メールの文面でも、喜んでる様子とか伝わるけど、直接聞くとよくわかるね」
「あ、そうかな。恥ずかしい」
 少しはしゃぎ過ぎただろうか。

 そこで、話の間が空いた。今に「それじゃ」と言われて、電話が切れてしまう。もしかして、もうメールのやりとりもおしまいになるのか。そう思うと、胸が苦しい程切なくなる。何とか話を繋げようと辺りを見回す。

「あ、あの、雷が鳴っているんです」

   雪が降るようになると、空模様が不安定になる。      窓の外でも私の中でも雷が鳴る。
「声が震えてる。怖いんですか?」
「雷は怖くない。怖いとしたら心です」

 カーテンの向こうがやけに明るく思える。
開けてみると、窓の向こうには音も無く雪が降り積もっていた。
「謎かけみたいだな。誰の心ですか?」
 篠原さんの声が柔らかく響く。それは花の形の白い結晶になり、心に舞い落ちる。
「私の心に雪が積もるの。あなたの言葉や私の想いが結晶になって、ひとひら、またひとひら落ちてくるの」
「僕の言葉が?」
「繊細だとか言われたら心が躍る。そうだ。雪が降ってくるのを見上げると万華鏡の中に入りこんだみたいでしょ。くるくると舞いながら落ちてくる。そのうち体の方が浮き上がる。あんな感じなの」
「ああ、あの浮遊する感覚はわかる。心が怖いと言ったね。それが迷惑なの?」
「こんな気持ちになるなんて、いけないことだと思う。でも、絵が仕上がったら、あなたと繋がる理由が無くなる。それに気付いたら、ものすごく淋しくなったの」

 窓を開けて、手を伸ばしてみる。手の平に
雪を受ける。手はだんだん冷たくなっていく。
それでも、雪はしゅんしゅんと融けていく。
「ねえ、今だけだから。もうしばらくだけこのままでいさせて。だって雪は春になれば融けてしまうから。そうしたら……」
「何でそんなこと言うんですか。世界は広いよ。雪が融けないところなんて、いくらでもあるよ。何ならもっと純度を高めて、氷河にでもなる?」
「氷河に?」
「そうだよ。あなたは雪を渡ったんだよ。そして僕の心までやってきた。昨日言ってたね。不可能が無限に可能になる気分だって」
「そう。どこまでも行ける」
「心が繋がっていたっていいでしょ。僕の存在があなたの心を瑞々しくさせて作品が生まれるなら、本望だ」

 雪は降り積む。何もかも真っ白にして。
    町に森に。そして、あなたと私に。

    Fin

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