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気持ちのいいノスタルジーが歴史をかえる ①ピープルパワー革命は「はったりだ」

フィリピンの大統領選挙は投開票が5月9日にせまり、にぎやかなコンサートが続いた集会も7日でおしまい。優勢とつたわる候補者ボンボン・マルコス氏のマニラでの最後の集会には、100万人ともいわれる人が集まった。「あと2日で私たちのボンボン・マルコス大統領の誕生がきまります!」という言葉がくりかえされ、花火が打ち上がり、まるでもう勝利を祝うパーティーみたいだ。

これまでマルコスの選挙集会を五カ所で見てきて、ああ私は、過去の歴史が変わる瞬間を、いや、というより、歴史的なできごとに対する「別の見方」をフィリピンの人びとが「選ぶ」瞬間をまのあたりにしているのだな、と思った。

追放されたボンボン一家

フィリピンの現代史で、1986年の「ピープルパワー革命(エドサ革命)」ほど世界に知られたものはないだろう。ボンボンをふくむマルコス一家が国外に追放されたできごとだ。

1965年に大統領についたボンボンの父フェルディナンド・マルコスは、道路や病院など社会基盤の整備や経済振興を進めたが、共産勢力の台頭などを理由に72年に戒厳令を宣言。議会や憲法が停止されるなか、マルコス政権に反対する人が連行されて暴行されたり、行方不明になったり、殺害された。少なくとも1万人以上が人権侵害をうけたと認定されている。

汚職もひろがり、マルコス家の不正蓄財も問題になった。ラップラーの報道によると、マルコス家の不正蓄財のうち、国の財産の私物化とみて86年以降にフィリピン政府が没収したお金は1740億ペソ(現在のレートで約4336億円)、さらに1259億ペソ(同3137億円)を回収すべく裁判中という。

こうしたなか、83年に反マルコスで知られた政治家のニノイ・アキノ氏が空港で何者かに暗殺された。マルコスへの不満や批判が高まるなか、86年の「ピープルパワー革命(エドサ革命)」でマルコスはハワイに追放された。

エドサ、エドサいいやがって!


この革命でフィリピンは「民主主義を取り戻した」先駆者といわれ、大注目された。当時、独裁政権下にあった韓国の民主化(1987年)にも、エドサ革命は影響をあたえたといわれている。

ところが今回、いくつかの選挙集会を見て驚いた。
舞台にあがった政治家らが、この「エドサ革命」を否定する発言を公然としていたからだ。

下院副議長をつとめたロダンテ・マルコレータ氏は、戒厳令下で起きた国による人々への残虐行為は「うそ」だといい、「エドサ革命ははったりだ!」とくりかえした。さらに「アキノを殺したのは誰なのか、その後2人のアキノ(妻コリー氏と息子ノイノイ氏)が大統領になったのに明らかにしようとしなかった。全部マルコスのせいにするためだ」とまくしたてた。

マルコス元大統領の支持者として知られる弁護士で上院議員に立候補したラリー・ガドン氏は、「みんなエドサエドサいいやがって、ばかやろうが!」とまで言った。

びっくりした。でも、フィリピンに長く住んでいる人には驚くほどのことではなかったのだろう。マルコス家を支持し、彼らが追放された経緯をおかしいと考える人は、昔からたくさんいたからだ。例えばボンボンの母であるイメルダ・マルコス氏は、夫の死後、ハワイからの帰国を認められると、翌1992年になんとフィリピン大統領選に立候補。当選はしなかったものの、まだ革命の記憶がなまなましいこの時期に230万以上もの票を集めていた。

7日のマニラの集会で群衆に掲げられたマルコス元大統領の肖像画

なぜ、アキノ政権は86年の革命にいたるまでのできごとをきれいに明らかにし、精算し、マルコス支持者との融和に向かえなかったのか。簡単なことではなかったのだろうけれど、そう思う。それがいまも、フィリピンの人たちの間に溝をうみ、わからないままのミステリーや伝説をつくってしまっているようだ。

そして、いまや私のような外国人まで気がつくほど堂々と、マルコス支持者は巨大な勢力になっている。そうなった背景には、誇張された過去への「ノスタルジー」と、人々の怒りがあると思う。

(つづくと思う)

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