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いまこそジャーナリストになろう

フィリピン人の知り合いの新聞記者が、フェイスブックにつらつらと、彼の一日について書いていた。

「昔は運転手のいる車でカメラマンと取材先に行き、聞いた話をノートにとったらマニラに戻って記事出稿。はい終わりだった。でも今は……」

でも今は?

身内100人だけが読む記事

「書くのは最後。自分で運転して、動画を撮影して、写真も撮ったら、自撮り棒で『えーここは……』と話しているところも撮る。インフルエンサーになりたい人だと周りに勘違いされる。動画に字幕をつけて、大量の写真からいいのを選んで。送ったら本社の動画チームに『もっと抑揚のあるしゃべり方をしてよ、まったく』と注意される……」。

うわあ。
日本と同じだなあ。

記事と写真はもちろん、動画撮影や番組づくり、イベント構成に司会にネット配信まで、新聞記者には最近いろいろな仕事がある。

でも一番「いたた、痛い」と感じたのは、彼が最後に書いた言葉だ。

「ここまでやって、見てくれるのはせいぜい目玉200個。それも家族や知り合いの『お疲れ』のいいね!なのよ」

さらなる困難の足音が……

わかるわー、うん。
どんな記事が多くの人に読まれるのかは、わからない。でも常に膨大な作業はついてまわる。世界中の記者が、多かれ少なかれ、こうした日常の「お疲れ」を感じているのだろう。

でも、まもなく新政権が始まるフィリピンでは、記者はさらに冷たく厳しい嵐の中に身を投じなければならなくなりそうだ。

次期大統領に決まったボンボン・マルコス陣営は、選挙期間中からメディアをシャットアウトし、都合の悪いことは話さない姿勢を見せ続けてきた。

次期大統領ボンボン・マルコス氏、26日配信された会見動画より

少しずつ明らかになる閣僚の陣容に、さらに胸騒ぎがする。
5月23日には、下院議員のヘスス・クリスピン・レムリヤ氏が司法相につくことが発表された。レムリヤは、ドゥテルテ大統領への抵抗姿勢で目をつけられていたフィリピン最大のテレビ局、ABS―CBNの免許を更新しないよう強く要請し、2020年5月に同局を閉鎖においこんだ一人だった。

25日には、広報担当相にトリクシー・クルズ・アンヘレス氏が任命された。ドゥテルテ大統領が2016年の選挙で駆使したソーシャルメディア戦略の担当といい、政権に都合のよい情報を動画で広げる「Vロガー」としても知られた人だ。

「記者が殺される国」で

「きみは正しいときにフィリピンにもどって来た、おかえり」

休職して4月にフィリピンにやってきたとき、フェイスブックにこんなメッセージをくれた人がいた。元ロイター記者のマヌエル(マニー)・モガートさんだ。

マニーさんとは、肩を組んで飲み交わす仲というわけでもないのだが、ご縁がある。

25年前にマニラに留学していた大学生のころ、私はマカティにあった朝日新聞のマニラ支局で記事スクラップなどをするアルバイトをしていた。日本人の支局長のもとには、二人の優秀なフィリピン人の助手さんがいた。その一人がこのマニーさんだった。彼らは忙しく飛び回っていたから、残念ながら、ほとんど話しをしたことがなかった。

2016年から特派員としてマニラに行くようになった私は、ロイターに転職したマニーさんと再会した。会見などでかいま見るその姿は、まさにすべてのフィリピン人記者の「頼れる兄さん」。後輩みんなに慕われていた。

その年の10月のこと。私が宿泊先のマニラのホテルで朝ご飯を食べていると、新聞にマニーさんのことが載っている。「えっ?!」とびっくりした。

マニーさんと同僚の記者は、ドゥテルテ大統領が自らをヒトラーになぞらえ、「麻薬中毒者を喜んで殺したい」と発言した、と伝える記事を書いた。私もふくめ、多くの記者が書いた内容だ。

6月で任期を終えるドゥテルテ大統領、2019年撮影

だがこの二人は、あるフェイスブックのページに「大統領発言をめぐる騒動の後ろにいる真犯人」として顔写真と名前をさらされ、「無責任なジャーナリストは罰せられねばならない」というコメントで脅されているというのだ。

記事を読みながらふと周りを見て、またびっくりした。近くの席にマニーさんが座っている。「マニーさん、どうしたの」と思わず声をかけた。一連の脅迫で身の危険があることから、同じく名指しされた女性の同僚記者とともに、マニーさんはそのホテルに避難していたのだ。

「わかるでしょう、この国は記者が殺される国だから」。

そう女性の記者が話すのを聞いて、ため息が出た。ここで記者をするって、生やさしくない。マニーさんたち大手メディアの記者はまだしも、地方都市のラジオ局や地方紙で、せまい地域の汚職や犯罪を追及するフィリピン人記者やラジオパーソナリティーは、さらに直接的な暴力にあい、殺される人もいる。

ミャンマー、ベトナム、カンボジア……現地の人が声をあげにくい環境にいるとき、私のような日本人記者はそこにひょっこり入って、ある程度は動き回り、記事を書くことができる。ああ、もっとできること、やるべきことがあったのではと、記者としての自分の仕事をふりかえると胃が痛くなる。

脅迫までされたマニーさんはその後、ドゥテルテ政権下の麻薬戦争を追い続けた連載「Duterte’s War Inside the bloody drug crackdown in the Philippines」で、2018年にピュリッツアー賞を受賞した。(※下の連載リンクには遺体の写真などがあります)

ピュリッツアー賞って本当にあるんだ、というような、知っている人の受賞にちょっと信じられないような感じがした。

The best time to become a journalist

マルコス新政権が始まろうとしている今を、マニーさんはどう見ているのだろう。彼は最近、こんなタイトルのコラムを書いている。

「ジャーナリストになるのに一番いいとき」

マルコスの報道官が会見で記者を無視し、「フレンドリーで和やかな」質問にだけ受け答えするさまをあげ、「昔ながらのメディアはマルコス資産の問題を報じることが大変になるだろう」とマニーさんは書いた。テレビや新聞などの、批判的なトーンが弱まっていることを危惧していた。
「この先には気が遠くなるような困難が待つ。課題と対決しなくては。ジャーナリストたちは粘り強く、準備して説明責任を要求していこう」

フェイスブックにメッセージをくれたずーっと前から、信じられないようなことがこれからたくさん起きると、マニーさんは覚悟していたのだろう。

取材しにくい、読まれない、メディア不信、うその流布、完無視される。

ジャーナリストは難しい仕事だな。嫌なイメージもあるのかも。
でも負けんな、おれたちの出番だ、やったろうぜ。嵐の海に航海に出る後輩たちを、かけ声で鼓舞するように、マニーさんは結んでいた。

「おもしろくなるぞ。いまがジャーナリストになるのに最適な時だ」

マルコス陣営の5月7日の選挙集会

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