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どうしてどうして私の話を分かってくれないの

ぼくらはやにわにヒートアップしていた。
夕食にぼくがご飯を3杯食べると、血糖値スパイクを起こして途端に眠気に襲われる。それが血管を傷つけ、長い目で見て身体にも良くないので、その食習慣を改善せよと、妻が迫る。

具体的には、食後の運動か、一日の糖質摂取のバランス改善か、糖尿病検査かと、迫りくる。
恐い。
怒られたくない。
正論を盾に喉元に刃を突き立てられれば、ぐぬぬとしか声が出ない。

でも、ぼくにもかすかな言い分があった。盗人にだって三分の理がある。
それは、妻の健康管理の握力が強すぎることだ。
ぼくからすれば、もうすでに健康になっている。ここまで十二分によくやっているのだから褒めてほしい。そう反論した。(果たして反論と呼べるのか、自分で書き起こしていて心許ない)
圧倒的に知識のある側から正論をかざされると、このくらいしか言い分がないものだ。

「私は正論をかざして押しつけてるつもりなんてない。提案をしているだけだから、納得いかないなら、ちゃんとノーと言ってほしい」と妻。

「ノーと言える論拠を何も持ってないんだから、ただ単に「嫌だ」という感想でしか返せない」とぼく。

「それでいいの。ちゃんと自分の意志を打ち出して。本当はノーだと思ってるのに、表面上でイエスのふるまいをされると、あれ?伝わってないのかな?もっとちゃんと説明しないと動いてくれないのかな?と思っちゃう」

「でも、手ぶらでノーを主張するなんて、無駄に衝突するだけじゃない」

「本心を隠されるより、私はそのほうがマシ。コンフリクトを恐れるべきじゃない」

「何にでもそんなに白黒つける態度をとらなきゃいけないの?グレーゾーンだって必要でしょ」

「何にでも、なんて話は今してないでしょ。ちゃんと我慢せずに自己主張してほしいの」

「……ぼくは3杯目のご飯を食べたい!って主張すればいいの?」

ぼくがそう言うと、思わず妻が吹き出した。
ぼくもたまらず笑った。一度に空気が緩んだ。

妻は一息ついてから、「ずっと健康問題の話だと思っていたけど、半分は違っていたかもしれない」と言った。「どうして私の話を分かってくれないの?と思っていたのは、コミュニケーションの問題だった」

私は、私の気持を分かってほしいと思っていたのだと思う。
そう妻は言う。
ぼくもその気持は分かっている、感謝していることをきちんと初めに告げるべきだった。

「不安」は、相手の「本心」が分からないところに起因するのかもしれない。

ささいなボタンの掛け違いのようにも思えてくるけれど、言葉にして伝えなくては分からないことはたしかにある。

深刻なことほど、ユーモアを持って伝えよう。

『重力ピエロ』(著・伊坂幸太郎)

きちんと言葉にして伝えるのは知性(主観性)で、それをユーモアを持って伝えられるのは品性(客観性)という感じだろうか。
ユーモアによって救われることは、実際にとても多い。

これについては、また今度書いてみたい。


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