『希望はいつも当たり前の言葉で語られる』はじめに

今月下旬に、新刊のエッセイ集『希望はいつも当たり前の言葉で語られる』(草思社)が出版されることになりました。本の序文を転載します。よかったら、どうぞ読んでやってください。

「はじめに 希望って何だろう?(ぼくにとって)」

 たとえば夢を叶えたり、成功を収めたりすることは、人生における幸せの最たるものなのかもしれない。どんな夢を思い描き、何を成功と考えるかは、人それぞれだとしても。
 ただ、この本は、そうした大きな幸せをめがけて書かれている、というものでもない。時々はそれらと関係ある話にもなるかもだけど、どちらかというと、もっとささやかな、身近な、自分の足元を見つめるような話題が中心になっていると思う。あとは、ぼくが言葉を書くうえで心に留めていることとか。

 ちょっと話が変わるけれど。
 ぼくは、希望ってすごく大事だと信じている。
 なのに、いまの時代は希望がぜんぜん足りてないんじゃないか、とも感じている。絶望のほうがよっぽどリアルで、身近じゃないだろうか。それって全然いいことだとは思えないけど、向き合うのが苦手だけど、現実というものを直視したら、そう言わざるをえない。
 じゃあ、希望って何だろう?
 いったい、これまでぼくにとって何が希望だったんだろう?
 と考えてみると、希望というのは、夢や成功にじかに結びつくものというよりも、むしろいまの難所をどう切り抜けるか、どうしたらこのドン底の苦境から脱け出せるか、あるいはすぐそばにいる大切な人をもっと大事にするにはどうすればいいのか、といった抜き差しならない実際問題の迷路をさまよっているときに、こっちだよ、と道を知らせる星明かりのようなものだった気がする。
 ぼくにとっての希望とは、高く遠く見上げるような何か立派なお題目ではなく、今日を生きるための知恵や、明日までどうにか持ちこたえるためのやさしさだった。

 そんな希望は、時に誰かがくれた言葉という姿で、ぼくの前に現れた。
 言った相手のほうはもしかしたら覚えてもいないような、会話の流れでふと一言こぼしただけの、ありきたりで何の変哲もない言葉かもしれない。でもそんな言葉に、ぼくは救われてきた。二十代後半になってようやく社会に出たはいいものの、右も左もわからないときからずっと、「白井、そういうときはこうするんだ」とか、「いいか? これだけは大事にしろよ」とか言ってくれた人の実感のこもった言葉が、夢見がちなぼくの脳内お花畑に補正をかけるヒントになってきた。
 ずっと心に残ってきた、それらの言葉たちをこの本に記そうと思う。
 ここにあるのは、ぼくがすったもんだのさなかをともにくぐり抜けてきた、現場叩き上げの言葉ばかりだ。そんな血の通った肉声が、真っ暗闇に囲まれたぼくのそばでずっと希望を灯し続けてくれた。

  希望はいつも当たり前の言葉で語られる

 というのは、ほかでもない、ぼくの実感だ。
 理不尽で不毛な世の中の矛盾に身も心もすり減らすようなハードな日々の中でも、希望はある、なんて言えない。もちろんあると思うけれど、問題はそこじゃない。
 きつい状況の中で人がぎりぎりのところで保ってきた平穏な日常を、根底からひっくり返しかねないことだって、この世の中ではうんざりするほど起こる。
 それを乗り越える方法は一人一人違うだろうし、これから書くことはあくまでぼくの実体験にすぎないのだけれど、この本が何かの足しになったなら、と願ってやまない。

  今日を生きることが大事。
  明日まで辿りつけたら最高。
  もしそんな日々の先に、まぶしい何かが待っていたら奇跡。

 と、そんなふうに思っている。
 そして無責任に言ってしまうと、なんとかなるさ、とも心のどこかでいつも思っている。
 よくわからない前書きになってしまったが、とにかく、あなたの日々にマッチの火ほどの小さな希望でも灯すことができたなら、何よりの何よりの何よりです。



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