見出し画像

一月は駅前のピアノ前で。(短編)

 「カラアゲ!」
 目の前の野暮ったい服装をした男が苛立ちを隠さずに大きな声で言ってきた。コンビニでバイトをはじめてから知ったこと。『単語でしか会話できない人間』がいるということ。コンビニに来店する客の七割方の人間はまともに会話することができない。
 そして、目の前のこの男は、コンビニでバイトをはじめて知ったこと、其のニ。『ボソボソと小さい声で注文する人間』にも当てはまった。どうやら、この人の中では、レジ横にあるホットスナックを注文したことになっているらしい。
 最初からそれくらいの声量で喋ればいいのに。品物を用意して、レシートを差し出すと無視された。男は袋だけを持って出口へ向かっていった。
 視線を前方に戻すと、また別の客がやって来て、黙ってレジ台に缶コーヒーを置いた。
 こいつは其の参。『無言でレジを済ませる人間』だ。

 バイトを終えて外に出ると、夕日のオレンジが街を包み込んでいた。バイトをしていると時間が長く感じるのに、勤務時間が終われば一日があっという間に終わっていく。働くと時間の感覚がおかしくなる。バイトを始めた頃からこの感覚は変わっていなかった。
 コンビニのバイトは土曜日と日曜日だけにしている。「平日は学校があるから」というのを建前にシフトを減らしているのは、働くことに前向きな気持ちになれないからだ。いつかは社会人になって「働く」ことが当たり前になるなんて、もうすでに憂鬱で堪らない、と思っている。
 駅周辺にたどり着くと、並びの飲食店から人の賑わいが聞こえてきた。それらの喧騒を避けるようにして、駅構内を進む。
 みんな、何がそんなに面白いんだろう?

 ピアノをやめてから良いことがない。特に一月は、あの発表会があった時期だから、気が重かった。
 子どもの頃、ピアノに入れ込んでいた自分は、周囲に天才だと持て囃されていた。自分でも得意になっていた記憶がある。しかし、上には上がいた。発表会ではじめてアイツの演奏を聴いた時、「コイツには一生勝てない」と思ってしまった。その時の敗北感を、今なら感情の機微として処理することができる。しかし、小学生だった頃の自分は、身体の内側から沸き上がってくる不快な感情に耐えられなかった。
 それから、俺はピアノをやめた。我が家では、ピアノのことは触れてはいけない腫れ物になっている。
 あれから時が経った今、アイツが再び、俺の前に現れた。

 きっかけは人気女性アイドルグループのセンターの女の子だった。「元気がない時によく聴いています」と女の子がテレビ番組で紹介したその動画の中に、学校の文化祭でピアノを演奏する男の子がいた。
 うちの学校でも話題になったその動画は、人気アイドルグループの人気と普段は冴えない男子生徒が文化祭を興奮の坩堝に巻き込んでいく爽快さも相まって、瞬く間に拡散され、今では世の中に広く知れ渡っている。すでに学校が特定され、取材の申し込みが殺到しているらしい。けれども、ピアノを弾いていた本人は、世に出てきておらず、正体は不明のままだった。
 しかし、少しでもピアノをかじったことがある人間なら、わかる。
 あれは、アイツだ。
 ある日、クラシックピアノ界から姿を消した、神童 ウサミ ケン。
 アイツが帰ってきたのだ。
 一連の騒動に胸がざわついて、自分で自分に驚いた。俺はまだ、過去を引きずっているのだろうか?
 これ以上、心を乱さないでくれ。俺は音楽の神様に嘆いた。


 「おつかれさまでしたー」
 店長に声をかけて、退勤する。コンビニを出ると駐車場の車止めの脇に、紙パック飲料のゴミが放置されていた。これはコンビニでバイトをはじめてわかったこと其の四。『ゴミをゴミ箱に捨てられない人間』の為すことだ。労働時間外だが、放っておくことができず、ゴミを拾って、ゴミ箱に捨てた。

 駅周辺にたどり着くと、いつものように賑わっていた。年始の静けさはどこへやら、街はいつもどおりの景色を取り戻してきている。人混みをかき分けて改札へ進むと、改札付近に人だかりがあるのを見つけた。人を避けて通り過ぎようとしたが、周囲の人間の話し声が聞こえてきて、思わず足を止めた。

 「ほら、今流行りのストリートピアノじゃない?」

 人の肩ごしに様子を窺うと、作業服の人たちがカラフルなボディーのピアノを設置しているところだった。
 「あの人、ほら!コハビヨのセンターの子が紹介してた男の子。あの人弾きに来てくれないかな」
 近くにいた女の子の集団からはしゃぐような声が聞こえてきた。ここにいる人たちの中に、あの動画があって、アイツのピアノがあることに、今更ながら驚いてしまう。
 瞬間、身体の中心から酸っぱいものがせり上がってきて、意識が揺らいだ。気分が悪い。息を短く吸って、深く吐き出す。何とか平静を保つように心がけた。思わず、人前でピアノを弾くときの癖が出る。けど、そのおかげで助かった。居た堪れなくなって、その場から逃げるように歩き出す。
 これ以上、俺を揺さぶらいでくれ。
 アイツは、俺がピアノを辞めることになった元凶だった。いや、元凶なんてアイツに失礼だ。ほんの一時の間だったけれど、同じように音楽の道を志していたのだから、わかる。アイツも血の滲むような努力をしたんだ。いや、俺以上の努力をしたはずだ。そんなこと、わかっていた。
 それでも、だ。
 才能に打ちのめされることは、キツい。身体の内側に錨を下ろしたような虚脱感が永遠に続く。重りを上げることも出来ず、風が自分を押してどこかへ連れて行ってくれることもない。
 自分が立ち直っているのか、自分でもわからない。
 はっきりしていたのは、俺がピアノをやめても誰にも何の影響もないという事実。それだけだった。
 俺は、それが演奏家として、死ぬほど悔しかった!
 俺は何者でもなかった!
 ピアノを弾いていてもそうでなくとも、俺は!

 「あっ、おねがいしまーす」

 差し出された手が視界に入ってきて思わず立ち止まってしまった。顔を上げて確認すると、防寒着を羽織った女性の店員さんが居て、牛丼の割引券を差し出している。辺りを見渡すと景色が変わっていて、振り返ると駅から随分離れたところまで来ていた。
 「おねがいしゃっす」と今度はくだけた言い方で、お姉さんが、割引券を差し出してきたので、おずおずと受け取る。『30円引き 牛丼(並)』とプリントされている。
 「あの、ここ人通ります?」人通りが少ない場所だったので思わず、声をかけた。
 「あーっ‥いつもは駅前で配ってるんですけど、今日は追い払われちゃって」とお姉さんは駅の方を指して言う。駅はピアノの設置を見守る人たちで溢れている。
 「いつもはスルーされてんですけど、本当は駅前でこういうの配っちゃダメみたいで。なんか今、人が集まってるでしょ?駅員さんも『今日は示しがつかないから』って」
 そう言いながらお姉さんは「参った参った」とつぶやきながら、残っている割引券を手の中で弄んだ。
 「だから、お兄さんがこの道を歩いてきてくれて助かったよ」
 「はぁ‥」
 「それで、お兄さんはどこ行くの?」
 「俺は‥」
 駅の方向に視線を向けると、人だかりの奥にピアノが見える。俺はこのままピアノに妄執し続けてどこへ行けるというのだろう。本当はわかっている。このままではいけないこと。でもどうすればいいかわからなくて、鬱屈した思考を繰り返し続けている。
 ただ、ひとつだけ言えることがある。
 アイツに才能があろうがなかろうが、ピアノはただそこに在って、誰かが奏でる。選ぶとか選ばれるとか、そんなものはない。
 ピアノはいつだって、誰かに奏でてもらえるのを待っている‥はず。

 「全部ください」
 「えっ?」
 「割引券、全部もらえませんか?」

 弾みが欲しかった。何でもいいから、きっかけが。だから、考えるより先に言葉が出ていた。お姉さんは、俺の言葉に困惑しているみたいだった。
 「でも、さすがに同じ人に何枚も配るのはズルしてるかんじで、ちょっとね‥」と渋る様子を見せる。ここで引き下がるわけにはいかない、とムキになった。
 「じゃあ、10杯食います。ちゃんと割引券、全部使いますから」
 俺が懇願すると、店員さんはとまどいながらも「まぁ、それならいいか」と持っていた割引券を全部譲ってくれた。それらをコートのポケットに入れ、踵を返して歩き出す。
 「ちょっと、君!」店員さんに呼び止められたので、足を止め振り返る。
 「私が言うのも何だけどさ。牛丼ばっか食べてないで、もっと栄養のあるもの食べなよ!‥まだ若いんだからさ!」
 牛丼屋のお姉さんがそれを言うのが面白くて少し気が紛れた。どうしてか『まだ若いんだからさ』という言葉が頭の中に響いた。
  お礼を言って、再度駅への道を歩き出す。もう過去は振り返らない。いや、これからも振り返ることがあるかもしれない。過去が絡みつき、恐怖で身も心も掬われるかもしれない。
 それでも、今は、俺は、もう一度、自分が満足するまで、弾いてみたい!と思った。
 いや、まだ満足いくまで弾いたことなんてなかったじゃないか?!
 踏み出す足に力が入った。

 駅にたどり着くと、ピアノの周りには老若男女の人だかりができていて、男子学生の一団から「お前弾いてみろよ」という小競り合いの声が聞こえる。取り巻きの間をすり抜けて進むと、視界が開けて一台のピアノが現れた。
 その瞬間、タイムスリップして過去に飛ばされたような錯覚を覚える。目の前にあるのは、あの日、俺が演奏するはずだったピアノだ。
 ピアノに近づき、立ったまま鍵盤に手を添えると、子供の頃には届かなかった音階まで指が届いた。ピアノが小さくなってる、と驚いたが、自分が大きくなっただけか、と心の中で自分にツッコミを入れて苦笑してしまった。
 できるだろうか?あの頃と同じように。
 いや、同じように演奏する必要なんてない。動画で観たアイツのピアノだって、あんなに楽しそうな音だった。変わっていいんだ、アイツも、俺も。
 椅子に腰掛けて深呼吸をする。短く吸って、深く息を吐く。俺の演奏する時のルーティーン。周りから雑音が消えた。
 鍵盤に両手を添える。俺は、せーの、で音を鳴らした。


fin.

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?