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人とちがうこと

私は、人とちがうことに、小さい頃から悩んできました。
でも、いろいろな人と関わると、みんな言います。

「私は、人とちがうから……」

たくさんの人と仲良くやっているような人も言います。

「実はあんまり人付き合いうまくないのよ。変わっているから」

あれ?
おかしくないですか?
私が、周りと何かがちがうと思い込んでいたのは、いったい何に対して、そう思ったんでしょう?

考えてみたら、周りの友達はみな、「人とちがう」から識別がついたんですよね。

運動が得意なAちゃんは、みんなと違って特別に運動ができる →人とちがう
計算の得意なBちゃんは、みんなと違って1番計算が速い →人とちがう
人を笑わせるのが得意なCちゃんは、クラスの誰よりも面白い →人とちがう

人と違っても、みんなが憧れる対象なら許されるし、その人を取り巻く人たちがたくさん集まってくる = その人を中心に集団ができるわけです。

でも、人を集められるような特技がない人は、集団から外れてしまいます。
すると、1人だけ浮いているように見えてしまうのです。
そこで改めて、『人とちがう』ことが良くないことだと思うようになる。
つまり、人とちがうことに悩む人は、他の人にアピールできるような何かを持っていないために、周りから相手にされなかった、つらい経験があるのだと思います。

しかし、才能があったとしても、それをアピールできるような自信がないと、結局は相手にされない。
つまるところ、自分の個性を周囲にアピールできて、周りの人が魅力的に感じてくれることで『勝ち組』になれるのでしょう。

このアピール力というのは、現代社会を生き抜くうえでとても重要だと思います。
以前仕事のことを書いたとき、スピード力が実力とされる世の中だと言いましたが、プラス、アピール力も実力と見られます。

むしろ、仕事が遅くても、アピール力があれば、仕事ができるように見えてしまう場合もあるほど、アピール力の方が優勢かもしれません。

でも、よく考えてみてください。
Aという仕事を成し遂げるとき、個人の作業の速さと個人のアピール力は、何の意味を持つのでしょうか?
Aをつくるチーム内で、役割分担をして、それぞれ任された任務を全うし、最後にチーム全体で仕上げていくのが、1番効率的な方法ではないでしょうか?
アピール力の強いオレ様のもとに、多くの取り巻きが集まる『集団』では、結局オレ様個人が考える仕事以上のものはできず、人が集まっていても
それぞれが力を発揮できずに、烏合の衆と化してしまいます。

それぞれが『人とちがう』からこそ、その力を合わせて出来上がるものは、個人の力では決してできないものになる。

人とちがうこと、アピール力をもたないことを、負い目に感じさせるような社会は、結局大した進化もできない、生産力を上げることのできない、貧しい社会にしかなりません。


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