おしゃべりをはじめた子供たちよ!誕生日には胎内記憶を語れ!
ある小児科医によると
しゃべりはじめたばかりの子供に、
「お母さんのお腹の中はどうだった?」とか
「生まれる前はどこにいたの?」と聞いてみると、
「雲の上にいたんだよ。」
「お母さんとお父さんが楽しそうだから来たんだよ。」
「お母さんが寂しそうだから来たんだよ。(シングルマザー)」
と口々に言うらしい。
(このお医者おそらく、三歳児がくるたんびに尋ねるんだろうね。研究者ではなく趣味で胎内記憶をきいているようだった)
やがてすぐにその記憶は消えてしまう
(3歳児がいる家庭は一度試してみて。4歳になると記憶がなくなってしまうらしい。この世界で覚えることが多すぎて自然と忘れてしまうから。)
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今の私が覚えている一番古い記憶に母はいない、父が台所にいて、私は哺乳瓶を咥え幼児番組を見ている様子を覚えている。
ある日、私が中耳炎になり、父がずっと抱っこしてくれたこと。抱っこされても痛さは止まないので当て付けに泣いたのを覚えてている。
なぜ、母がいないのかというと、私が生まれて直ぐに姉が入院しなければいけなくなり、母は乳飲み子私を父に預けて、病院に住むことになった。電車で4時間くらい離れていたので、母はずっと帰ってこれなかたのだろう。
しばらくして母が帰って来たとき私は、人見知りをして泣いたらしい。それはそれは大きな声で泣いたそうな。「知らん人来たぁ。ゆうてなぁ。和歌子が泣いたんや」と母は言う。
母よ。しゃべれない私がそんなこと言ったんですか?フェアじゃないよ。三歳になった時に聞いてみれば良かったのです。そしたら「母ちゃんがおらんかったからさみしかったから泣いたんやでぇ。」くらい言ってあげたんやけど。
退院した姉が久しぶりに帰宅した時、すでに違う訛りでしゃべっていたのを覚えている。姉はまるで異国の人のようだった。
姉には、リカちゃん人形やら、小さなトランクに入ったタオル生地のぬいぐるみが与えられていたのが私にはキラキラした宝物に見えた。
今でも色や手触りを覚えている。どうやら、入院するとたくさんオモチャを貰えるらしい。私は、オモチャを買ってもらった記憶がなかった。
一度だけ、父と一緒に行ったお祭りの屋台で「リカちゃん電話」をねだったことがある。もちろん手に入らなかったので、それ以来、おもちゃをねだったことはない。
色や形をずっといまだに覚えている。その電話がずっと欲しかった。中学生になるくらいかな?結構大きくなるくらいまで欲しかったのよね。
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こうして、ちび和歌子は聞き分けのよい、父親っ子に育ってしまった。
明らかに私は父のお気に入りだったし、父は私のお気に入りだった。
◆
数年前のこと、医者に滅多に行かない母が下がってきた子宮を切ることになり、入院することになった。私はたまたま地元にいたので付き添うことにした。
いよいよストレッチャーに乗せられた神妙な面持ちの母が遺言のようなものを残した。
「わかこぉ。今まで言うてなかったけど、言うたろか?あんたを産んだ後、子宮のヒモを結んだんや。じゃあ行ってくるわ。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥プッwwwヒモって何?」
「卵管結紮(らんかんけっさく)ちゃう?あんた産んですぐに避妊手術したってことやろ?」
「それ、今言う?www 」
要約すると、母は子宮に別れを告げる為に思うところがあったのでしょう。私を産んだ後に避妊手術をしたことを思い出し、その秘密を遺言として打ち明けたかったのだ。初めての手術で不安だったんだね。
男 男 女 女 と母は産んだ。彼女にとって私はいわゆるサプライズだったのだ。望んだ妊娠でなかったなんて私はずっと前から知っている。
母が私の妊娠に気づいたとき、きっと悩んだことだろう。父は心の病で働けなかったので、当時、母だけが働いていた。そして、私は母が堕胎を選ばないと知っていてやって来た。そう、私は父を救う為にやってきたのだ。
だから、悩むことなんてないんだよ。
三歳の時、私に聞いてくれればよかったんだよ。
「どうして、お母さんのところにやってきたの?」ってね。
私が母ちゃんと父ちゃんのところに来たかったから来たんだよ。
なーんにも心配しないでいい。きっとなんとかなるんだから。
赤 和歌子