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毒にも薬にもなる話

國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読んだ。

色々と示唆に富んだ話があったのだが、中でも、
生物学者のユクスキュルの「環世界」の話に魅かれた。

というのも、「環世界」の話を読んでいて、
岸田秀さんの「唯幻論」を思い出したのだ。

岸田秀さんの「唯幻論」の前提になっているのは、
「人間は本能が壊れた動物である」という解釈だ。
本能が壊れているので、文化や文明によって
壊れている部分を補っている。

例えば、昆虫や動物は、生殖期間中、
「生殖活動をしない」ということをしない。
逆に生殖期間外は、「生殖活動をする」ということをしない。
人間は、生殖期間というものがなく、
その時その時の感情や状況によって、
どうするかを判断する。
昆虫や動物と比べると、
人間は「本能に基づいた行動をとっていない」
ということらしい。

ユクスキュルの「環世界」の話を読んでいて、
それを思い出した。

生物はそれぞれ異なる時間を生きており、
そのそれぞれ異なる時間を生きている
個別の世界が「環世界」だ。

本の中では、ダニやトカゲが例としてあげられていたが、
身近な犬や猫のような動物でも、
犬や猫は聴覚や嗅覚が人間よりも優れているし、
人間は犬や猫よりも視覚が優れていて、
外界の情報の受信の仕方が違うので、
体感や時間感覚が異なるというのは、なんとなく納得できる。

そして人間は、環世界をもっているだけでなく、
環世界を移動する能力を持っているという。

たとえば宇宙物理学について何も知らない高校生でも、
大学で四年間それを勉強すれば、
高校のときとはまったく違う夜空を眺めることになろう。
作曲の勉強をすれば、
それまで聞いていたポピュラーミュージックは
まったく別様に聞こえることだろう。
鉱物学の勉強をすれば、
単なる石ころ一つ一つが目につくようになる。

人間のように環世界を往復したり巡回したりしながら
生きている生物を他に見つけることはおそらく難しいだろう
(退屈と暇の倫理学 P295、296)

人は、環世界を移動する能力を持っている。
動物はどうかというと、
動物も環世界移動能力を持っているらしい。

本の中では、盲導犬が例に出されている。
盲導犬は盲人がぶつかるかもしれない障害物を
避けなければならない。
犬にとって障害物でなくても、人にとって障害物であれば、
その障害物を避けるように訓練する。

つまり、盲導犬は訓練を受けることで、
人間の環世界に近づくことができ、
環世界を移動することができる。
まったく環世界を移動できないということではない。
しかし、人間ほど複数に環世界を移動する能力はなく、
相対的に動物よりも人間の方が
環世界移動能力が高いといえる。
逆を言えば、相対的に動物は人間よりも
一つの環世界にひたれる能力が高いといえる。

岸田秀さんの「人間は本能が壊れた動物である」という
解釈に照らし合わせれば、
動物の本能行動とは、「一つの環世界にひたる能力」と
言えるのではないか。
「本能が壊れている」というのは、
一つの環世界にひたることができなくなり、
複数の環世界を移動しないといけなくなってしまった
ということではないか。

人間はそれぞれの環世界を生きているが、
環世界を移動できることによって、
不安定な環世界しか持っていない。

人間は環世界の移動という自由度を獲得することによって、
一つの環世界の行動を徹底するということができなくなった。
つまり、本能行動をとることができなくなった。

そうすると、自分の行動の方向性を限定させていくことの方が
人間にとっては、難しいことなのかもしれない。

本能が壊れてしまったことを
文化や文明で補っているのだとすれば、
一つの環世界にひたれないのを
ひたれるように補っているのだろうか。

どうであるにせよ、
人間を人間的にしている自由度が、
人間を不安定にもさせているというのは、
毒なのか薬なのかよく分からない話だ。

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