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ギーゼブレヒト伝に現れたレーヴェ(5)

 文献学者フランツ・ケルンが書いた『ルートヴィヒ・ギーゼブレヒト 詩人・学者・教育者』という伝記に依拠しつつ、ギーゼブレヒト(1792-1873)と同僚のギムナジウム教師であった作曲家カール・レーヴェ(1796-1869)の足跡をたどるこのシリーズも、いよいよ終わりが見えてきた。(1)から(4)にかけて、ふたりの出会いと共同作業の記述を追った。取り上げられた創作は主としてオラトリオであり、学校行事に際しての歌もあった。

 今回はレーヴェの独唱作品に関するトピックを取り上げる。実はどうしても気が進まず、これを飛ばして感動の大団円で終わらせようかとも考えたが、やはりギーゼブレヒト伝でレーヴェが現れた箇所は網羅するというのがそもそもの趣旨であるので、己に鞭打って書いてみる。気が進まない理由は、ドイツ語詩の韻律論という(ほとんどの読者にとっては)トリヴィアルな問題が、本稿の要だからである。わかりやすく面白い書き方ができる自信はないが、ともあれバラード形式の歌曲集《鉱山労働者》にまつわる問題を見てゆこう。

 1820年代から30年代にかけて、ギーゼブレヒトはいくつもの媒体で詩を発表した。ケルンはそれらの媒体名を列挙し、最後にアーダルベルト・フォン・シャミッソーとグスタフ・シュヴァープによって編集されていた『詩神年鑑』を挙げる。問題は『詩神年鑑』に掲載される詩をめぐって起こった。親交のあったシャミッソーからギーゼブレヒトへの手紙が引用されている。1833年1月のものであるという。シャミッソーは友人の声に耳を貸してほしいと願った後で、ギーゼブレヒトに以下のような提案をする。

貴殿の美しい詩が、ただ3つのナンバーのみで構成されるように決心していただけませんか? I.(酒杯)、II.(結婚指環)そしてIV.(聖杯)です。III.(王冠、これだけ韻律が異なり、より弱い)とV.(IV.の後に置く必要はない)は脱落させることを決心していただけませんか?

Kern[1875: 102]拙訳

 話はこうである。ギーゼブレヒトは後に「鉱山労働者(Der Bergmann)」というタイトルのもとにまとめられる詩を、シャミッソーに送ってあった。その詩は5つの部から成っている。鉱山労働者が掘り出した黄金は、第1部では飲食の欲を充足させる酒杯に、第2部では結婚生活と夫婦愛の証である結婚指環になる。第3部では国家共同体の象徴である王冠になり、第4部では宗教生活を象徴する教会の聖杯になる。そして第5部では全体を締め括る省察が行なわれる。黄金という物質が、人間にとって基礎的な欲求を充たすための道具から、精神的により高い段階に対応する道具へと高まってゆく(ここにもギーゼブレヒトがヘーゲルから受けた影響が見られないだろうか?)。そのうちのふたつの部を、シャミッソーは省いてくれと言ってきた。第5部が余計だというのはいかにも難癖で、

全体の理念を明瞭に形作っている締め括りの省察が余計だと言うシャミッソーは、正しいと認められないだろう。

Kern[1875: 103-104]拙訳

とケルンは評している。

 問題は第3部の王冠である。これだけ韻律が異なるとはどういうことか。比較のために、各部の第1行を読んでみよう。第1部は、

Im Schacht der Adern und der Stufen
(鉱脈や鉱塊の立坑のなか)

Runze[1900: 120]
現代の正書法に改めた。訳は拙訳。
強調は引用者。以下同じ。

第2部は、

Von meines Hauses engen Wänden
(わが家の狭い壁のなかから)

Runze[1900: 123]

第4部は、

Es steht ein Kelch in der Kapelle,
(礼拝堂のなかに聖杯がある)

Runze[1900: 130]

第5部は、

Als Weibesarm in jungen Jahren,
(若かった頃 妻の腕が)

Runze[1900: 132]

である。太字にした音節にアクセントを置いて音読すれば、いずれの行からも「弱強・弱強…」のリズムパターンが感じ取れよう。この「弱強」の韻律単位(詩脚という)をヤンブスと呼ぶ。これらはいずれもヤンブスの韻律で書かれた詩である。では第3部はどうか。

Unser Herzog hat herrliche Taten vollbracht,
(われらが公爵様は豪儀な偉業を成し遂げられた)

Runze[1900: 125]

となり、これまでの詩行とは明らかに異なる。太字部分を音楽でいう強拍に乗せるように音読すれば、「弱弱強・弱弱強…」のリズムパターンが浮かび上がる。この「弱弱強」の韻律単位(詩脚)をアナペストと呼ぶ。つまり第3部だけがアナペストで書かれており、ヤンブスで書かれた他の部から浮いてしまうのである。シャミッソーにはそのことが気に入らなかった。

 ギーゼブレヒトは「鉱山労働者」の詩を、1836年に出した詩集の初版には収録しなかった(ちなみにギーゼブレヒト詩集のために出版社を世話してくれたのはレーヴェだという。どうも私には、ギーゼブレヒトが俗世間の些事を苦手とする理想主義者で、レーヴェが苦労して世渡りをしてきた現実主義者に思われてならない)。ようやく1867年の第2版にそれは収録されたが、その際アナペストの第3部は、他の部と同じヤンブスに書き換えられていた。ギーゼブレヒト詩集の本文は、残念ながら現段階ではデジタルで閲覧できないが、幸いマックス・ルンツェが書き換え後の第3部を、レーヴェ全集の解説に引用していた。第1行は、

Hat unser Herzog große Taten
(われらが公爵様は豪儀な偉業を)

Runze[1900: XXV]

であり、「弱強」の韻律単位で整えられている。

 さて、見る人が見れば些末なこの「ベルクマン問題」(と私が勝手に名づけた)を取り上げた理由はといえば、まさにこの第3部にレーヴェが関わってくるからである。レーヴェはオリジナルの突進するような(stürmend)アナペストを高く評価し、そのリズムを活かして輝かしい曲に仕上げた。このことをルンツェは「美しい初稿の第3部を救った(gerettet)」(Runze[1900: XXIV])と評している。

 しかし冷静にケルンの記述を読めば、そうとばかりも言えないことに気づかされる。

たしかにレーヴェは突進するようなアナペストを、彼の作曲のためにとりわけ好都合だと思ったのであろう、まさにこの部を最も美しいと明言し、そういうわけでこの詩は1860年にもなお元来の形式で、シュテッティンのロッジ・コンサートにおいて歌われはした。

Kern[1875: 104]

とケルンは、freilich(たしかに~ではある)の構文で留保をつけた書き方をする。レーヴェの選択は無批判に礼讃されてはいない。むしろケルンは、

シャミッソーがその詩を読んだ時代には、ひとつの部だけが他の部と異なったリズムを持つことは、もちろん美学的な過失であった。

Kern[1875: 104]

と書くことで、後年アナペストをヤンブスに書き換えたギーゼブレヒトの判断をよしとしている。

 私はこの箇所を読んだとき、猛省を促された。誰しも愛する対象には惚れ込んでしまうものであろう。私はレーヴェが好きで、いろいろ調べ始めた。レーヴェについての文献を書く人々も、たいていはレーヴェを愛している。そのうちレーヴェを愛する人々の目を通してしか、レーヴェを見られなくなる。レーヴェのしたことなら、何でも適切であったと思うようになる。「ベルクマン問題」についても、ギーゼブレヒトの韻律にケチをつけたシャミッソーが悪で、作曲によってオリジナルを救ったレーヴェが善であると、独断的に思い込むようになる。しかしケルンの冷静な記述は、私の目を覚ましてくれた。たしかに突進するようなアナペストは、単調になりがちな音楽に変化をつけ、豊かなリズムをもたらす限りにおいて効果的であったろう。しかし純粋に詩作品の均整を考える場合には、そのアナペストは「美学的な過失」とも考えられる。対象からの距離の取り方や、複数の観点から考えることの重要性を改めて思い知った。

(レーヴェが作曲した第3部の音源へのリンクです)

参考文献

Franz Kern: Ludwig Giesebrecht als Dichter, Gelehrter und Schulmann. Als Anhang: Ferdinand Calos Leben erzählt von Ludwig Giesebrecht. Verlag der Th. von der Rahmer, Stettin, 1875.

Max Runze (hrsg.): Carl Loewes Werke. Gesamtausgabe der Balladen, Legenden, Lieder und Gesänge für eine Singstimme, Band X, Romantische Balladen aus dem höfischen wie bürgerlichen Leben, Bilder aus Land und See, Verlag von Breitkopf & Härtel in Leipzig, Brüssel, London, New York, 1900.