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noters [seven] のぼさんの明治28年を。

四国は愛媛県松山市の道後には、子規記念博物館がある。松山出身の俳人、「のぼさん」こと正岡子規まさおかしきを記念した博物館だ。

正岡子規の本名は正岡常規つねのりだが、幼名はのぼるといったから、のぼさん、である。

さてこの博物館のメインは、もちろん子規をテーマにした展示なのだが、歴史の勉強会のような講演会や講習会の会場によく使われている。郷土史家の方や地元の大学の先生などが、地域の歴史に興味のあるひとびとに講義をしてくださるような機会もあって、私もよく訪ねる博物館なのだ。

少し前の話になるが今年の早春、私が講義を聞きに行ったら、博物館を入ってすぐのロビーで書道展が開催されていた。(写真をしっかり見たい方は拡大してみてね)

上の写真に載っていた小学生二人がかりで書かれた作品は、ロビーの2Fの手すりから下げて展示されてあった。実に堂々とした書きっぷりだ。

お見事。

この垂れ幕のように飾られた作品の下では、ロビーの一角を区切って正岡子規が残した俳句がさまざまな形に書き記され、きれいにフレームに入って展示されている。

たとえばこのように。

櫻の文字が大きく花開いた味のある達筆。

実は、子規が残した「世の中は~」で始まる俳句、「~笑い声」で終わる俳句は少なくない。この場で子規の俳句について論評するつもりはないので、そのままの意味を素直に受け取ってみたいが、この句を脳内でビジュアル化しようとしたら、「世の中は」と詠んだ時の子規がどんな状況にあった時代なのか、「桜」はどこに咲いていたのか、どんな「笑い声」なのか、そんなことを考えたりはしないだろうか。


次にこちらの俳句は、子規が松山で詠んだ句。


艶めき蠢く色里とは違う種類の世界の風が吹く。味わいある字。

色里とは道後にあった色街のことだ。
子規が夏目漱石と一緒に道後を散策しているときに、鎌倉時代の僧侶で、時宗を開いた一遍上人の生誕地である宝厳寺という寺で詠んだ。
その寺は道後に今もある。

色街からたった十歩隔たったほどという宝厳寺の境内は、秋らしい爽やかな風が吹いていることを詠んだ。


次はあなたもきっと聞いたことがある句。

文字の力強さのせいか、「ゴーン」と鳴る鐘の音がしっかり響く気がする。

この有名な俳句は、子規が松山での一時的な滞在を経て東京へ戻る際に、奈良の法隆寺へ立ち寄って詠んだ句だという。


これ以外にも展示されていた味わいのある文字たちを追っていったら、最後にすごいのがあった。

言葉の選び方が。

それがこれだ。


「これを書きますか!」とは私の感想。

全部ひらがなでのびのびと力強く書かれた文字。
個々の文字の強弱はあまりない。というか、全部が主張してる。

うーん、これを書きますか。

書き手が自分で選んだ言葉なのだろうか。
展示を見ていて、急に登場したこの書のインパクト。

平和な内容の俳句を味わったあとの強烈さ。

子規の最初の喀血は、彼にとって結核を病み、結核菌が脊椎にめぐり、それが悪化して脊椎カリエスとなった痛みに苦しむ悲惨な晩年の幕開けとなる最悪の大事件だった。
闘病中にも子規は何度も喀血したに違いない。

実は、上記に紹介した3句は、全て明治28年(1895年)に作られたものだ。
そもそもこの展示は、「明治28年に作られた俳句や関係する言葉を書にしたもの」だったのだ。ここに紹介していない作品も皆同様である。
最初の展示案内の写真の中にも書かれていた。
「櫻」の俳句は春に、残りの2句は秋に。
そして、「しきのかっけつ」(子規の喀血)も、すべて同じ年の出来事である、というところがポイントだ。

明治28年というのは、子規の生涯において悪い意味で大転換の年。

子規は春に「櫻」の句を詠み、日清戦争の従軍記者として清国へと渡り、5月の帰国途中の船内で大喀血して病が公となった。帰国後は、神戸での入院生活ののちに小康を得、夏目漱石が教師として赴任していた故郷の松山で漱石と同居。そのあいだに「色里」の句を作った。のち松山から東京へと戻る途中に奈良に立ち寄り、「鐘が鳴るなり法隆寺」を詠んだのだ。

「しきのかっけつ」。

すごい言葉を選んだものだな。
「かおりしょ」とあることから、書き手はおそらく小学生くらいの女の子か。
本人が選んだ言葉だったのだろうか。
その着目点がいい。

明治28年は子規の病が発露した年だった。