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太田道灌の辞世 戦国百人一首81

武将であり学者であり、非常に優秀だったと言われるのがこの太田道灌(おおたどうかん)(1432-1486)だ。
いわゆる戦国と呼ばれる時代のほんのスタート時期に活躍した人物である。
彼は、風呂場で主家によって謀殺されるという悲劇に見舞われた。

81 太田道灌

かかるときさこそ命の惜しからめ兼(かね)て亡き身と思ひ知らずば

前々から死んだ身と思い知っていなければ、こんな時には命が惜しいと思うだろうが、(戦に明け暮れ)もとから命は無いものと覚悟している自分は、惜しいことだとは思わない。

太田道灌は、徳川家康が(江戸時代の最初に)入城した江戸城の前身である江戸城を築城したことで知られる。彼は非常に多才で、学問に優れ、若い頃の才気煥発な逸話には事欠かない。

武将が1対1で戦う「一騎討ち」が主流だった戦い方から、足軽たちを集めた部隊を作り、馬に乗った武将を取り囲んで槍などで襲撃する「足軽戦法」を確立し、戦の形を変えたのも道灌だった。室町時代の話である。

そんな優秀な太田道灌は、扇谷上杉定正(おおぎがやつうえすぎさだまさ)の家老だった。
関東管領を勤める上杉家は4家に分れており、没落した2家を除き、格上の「山内上杉家」と道灌が勤めていた格下の「扇谷上杉家」があった。
扇谷上杉家は道灌の活躍で盛り返し、山内上杉家との立場を逆転させる。
扇谷上杉家における道灌の力は絶大なものになっていった。

1486年、道灌は定正の糟屋館(かすややかた)に招かれた。
すると入浴を済ませた道灌は、風呂場を出たところを曽我兵庫という者に襲われたのだ。
当然、入浴直後の道灌は丸腰である。
戦う武器を持つチャンスもないまま、道灌は斬り殺されるしかなかった。
殺害を指示したのは、道灌の主人の定正だった。

暗殺の理由は、
・定正が力を持ちすぎた道灌の下克上を恐れたから
・定正が山内上杉家の画策に乗せられてしまった
など諸説ある。

さすがの道灌も主君である扇谷上杉定正には油断していた。

上記の辞世は、全てが道灌の作ではないという説もある。

道灌を襲った刺客が、
「かかるときさこそ命の惜しからめ(この時になって命が惜しいと思うだろう)」
と呼びかけると、
「兼(かね)て亡き身と思ひ知らずば(元から命はないと覚悟しているから惜しいとは思わない)」
と道灌が応えたのだという。

どちらの辞世の形にせよ、武将というものは、暗殺されようかというその瞬間にも「それらしき振る舞い」を求められるものなのか。
咄嗟に気の利いた言葉など常人にはそうそう出てくるものではないが。

かの渋沢栄一は道灌の辞世について
「今の青年子弟諸君に於いても、平素より常に此の太田道灌の如き意気と覚悟とを持つやうにして戴きたいものである」
と彼の談話筆記である『実験論語処世談』にそう残している。

さらに、死に際の道灌は「当方滅亡」と言い残したという。
自分が死んでしまえば「当方=扇谷上杉家」の将来はない、と言ったのである。

道灌の死後、彼の息子太田資康をはじめとする多くの家臣が定正の元を去り、ライバルである山内上杉家の上杉顕定(あきさだ)について定正を苦しめた。
定正自身は、道灌の死から8年後の1493年に急病もしくは落馬にて死んだと言われている。

さらに扇谷家は1546年に後北条氏との戦いに敗北して滅亡している。
これは道灌の死から60年後のことである。