見出し画像

柴田勝家の辞世 戦国百人一首79(再)

注意:この投稿は、既にアップしていたNo.79の記事の再アップです。既読の方がいらっしゃったらスルーしてください。一度間違って下書きの途中をアップしてしまい、下書きに戻して再公開すると日付や順番がおかしくなってしまいましたので、新たな記事として再度アップしました。前回に出していた同じ記事にもスキやコメントをいただいていたので、そちらもそのままにしています。内容が同じ記事が2つになってしまいました。

柴田勝家(生年未詳-1583)は、織田信長の重臣として活躍した武将だ。
通称「権六」、武骨な性格でその武勇から「鬼柴田」とも呼ばれたという。
もともとは、信長の父親・織田信秀に仕え、信秀死後は信長の弟・織田信行の宿老として信長と敵対していたが、のちに信長に臣従した。

画像1

夏の夜の夢路はかなきあとの名を雲井にあげよ山ほととぎす

夏の夜のようにはかない人生だったが、ほととぎすよ、俺たちの生きた名(証)を空高く(雲井に)あげてくれ

勝家は、信長の妹・市の再婚相手であり、彼女の辞世への返歌としてこの辞世が詠まれた。

市は浅井長政の妻であったが、浅井氏が滅亡したときに、柴田勝家と羽柴秀吉との間に市をめぐる争奪戦が起き、これがのちの勝家と秀吉の不和の原因になったという俗説もある。
結局織田家に庇護された市(彼女は織田信長の妹だと考えられている)は、のちに勝家と再婚した。
市が秀吉を望まなかったとも言われる。

年齢がはっきりしないので、正確にはわからないが、勝家は市より20歳ほど年齢が上だったのではないかと考えられている。
しかし、彼と市との仲は睦まじかった。

勝家は、織田信長が本能寺の変で亡くなった後に、織田氏の後継者問題で羽柴(豊臣)秀吉と対立した。

そして1853年、近江で起きた賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉軍に敗れてしまう。
居城である越前の北ノ庄城に立て籠もった勝家は、秀吉軍に包囲された中で家臣たちと最後の酒宴を催し、天守閣で市や家臣たちと共に火を放って自刃したと言われる。

先も述べたように、彼の辞世は、市の辞世に返歌だと考えられている。
死の直前まで2人の仲の良さは変わらなかったようだ。

市の辞世

さらぬだにうちねるほども夏の夜も別れをさそふほととぎすかな

に呼応して勝家もまた「ほととぎす」を詠み込んだ。
この鳥は、「冥土にある死出の山を越えてくる鳥」つまり「黄泉の国へと導く鳥」である。

辞世の歌を詠んだあと勝家は、

「修理の腹の切りようを見申し候て後学も仕り候え」
(私の切腹を見て後学とするように)

と言うと、市をひと突きで殺し、彼自身は十字腹を切って(腹を十文字に切る正式な切腹の仕方)、家臣の中村文荷斎に介錯させて亡くなったのである。

正式な切腹と言えばそうであるが、並大抵の精神力では十字腹は切れない。
「鬼柴田」らしい最期といったところか。