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伊達政宗の辞世 戦国百人一首84

幼名・梵天丸。
伊達政宗(1567-1636)は5歳のときに疱瘡(天然痘)にかかり、右眼を失明した。目は見開いたまま白濁していたという。

84-2 伊達政宗

曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く

暗闇を照らす月光のように、己の信念を光として
先の見えない(戦国の)世をただひたすら歩いてきた生涯であった

政宗の辞世には2パターンが伝わっている。
上記は、政宗の辞世として比較的よく引用されるものだ。『貞山公治家記録』巻之39下(1703年)に記されている。

困難の多い生涯ながら自分を信じて生きた男の生きざまが表れている。

下記のものが別パターンである。

曇りなき心の月を先たてて浮き世の闇を晴てこそ行け

暗闇を照らす月光のように、己の信念を光として
先の見えない(戦国の)世をひたすらに進み、晴れて渡りきった生涯だった

伊達成実著『政宗記』(1642年)に記録されている辞世である。月光というよりはむしろ日光のようなより強い光が感じられる。

2首いずれにも含まれた「月光」という言葉からは、政宗の兜を連想させられる。
全体が黒で統一された政宗の甲冑、重要文化財「黒漆五枚胴具足」。
その中でひときわ目立ち、鋭く、アシンメトリーに配置された、あの三日月の前立てのある兜だ。
戦国武将の多くが前立てなどに意匠を凝らした変わり兜を所有していたが、政宗の兜はシンプルで洗練されている。
伊達政宗の兜といえば、この三日月の兜しか考えられないほどだ。

政宗が黒の甲冑を選んだのにも理由があるとされる。
10世紀ごろ中国の唐王朝末期に活躍した最強の武将・李克用(りこくよう)にあやかったというのだ。
黒で統一された軍を率いていたという李克用は、隻眼(せきがん/片目)の猛将で、しかも「独眼龍」とあだ名されていた。
政宗が意識したことは十分に考えられる。

だが実は、彼は生前から「独眼龍」と呼ばれていたわけではない。
政宗が「独眼龍」と呼ばれたきっかけは、彼の死後に江戸時代の儒学者の賴山陽によって1841年に刊行された『山陽遺稿』に収められた漢詩だったと考えられている。
賴山陽がその詩の中で、李克用のニックネーム「独眼龍」を用いて伊達政宗を例えたことから「独眼龍=伊達政宗」のイメージとなった。

また、政宗のトレードマークとされる、「右眼を覆う刀の鍔のような眼帯」は、後世の映画やドラマによる影響である。
現存の記録には眼帯で目を覆った事実さえ見当たらない。

いささか彼の外見にまつわる話ばかりに偏ったが、とにかく、辞世に現れている「月光」とは、政宗なりの深い思いが込められていたのである。
なぜなら、彼の生涯は辞世にあるように「心の月」を照らさなければ進んでいけないような険しいものだった。

幼くして右眼を失った。
1584年には父輝宗から穏便に家督が移譲されたが、翌年その父は射殺もしくは刺殺された。
政宗が射殺した可能性も指摘されている。
母の義姫は、隻眼で醜くなった政宗より弟の小次郎を愛した。
その母に毒殺されかけた(とされる)政宗が小次郎を殺害したとも言われる。
一方、その後の政宗と義姫との親子睦まじい書状が発見されたこと、小次郎は政宗に殺害されず、東京都あきる野市の大悲願寺の15代住秀雄となっていたとする証拠などの浮上もあって、政宗と母や弟との関係についての明確な答えは研究結果を待つ必要がありそうだ。

戦国武将としての政宗は、東北の領土をほぼ手中にするほどの英傑だった。だが、生まれた時期が遅かった。
天下をまとめ上げるという点では豊臣秀吉が先んじており、すでに強大な力を持っていた秀吉の前に屈した政宗は、1590年の秀吉による小田原征伐に参陣している。
秀吉に服属した政宗は、100万石を超えていた伊達氏の所領から会津などを没収され、72万石持ちとなった。
さらに1591年、政宗が領土回復のために起こさせたという岩手での葛西大崎一揆が秀吉を激怒させ、領土はさらに58万石へと減ってしまった。

勢いを削がれた政宗だったが、1593年の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍した際には彼らしいエピソードを残している。
出兵の道中、他の軍勢の行軍を静かに見守っていた京市民が、伊達勢が通過するときに思わず歓声をあげたというほど、彼らの身に付けた戦装束は絢爛豪華だったという。これが粋で洗練された華やかな衣裳を着こなす人が「伊達者(だてもの)」と呼ばれるようになった所以と言われる。

さらに政宗は、1600年の関ケ原の戦いで、徳川方に組して上杉景勝と戦った。
領土は62万石にまで復活し、1603年に居城を仙台に移して仙台藩の藩祖としてその基礎を築いた。
教養人としても知られ、見識も広かった彼は、1613年には仙台藩からスペインへ通商交渉を目的に(最終目的は軍事同盟だとも言われる)宣教師ルイス・ソテロと支倉常長を中心にした慶長遣欧使節をスペイン国王・フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣している。

晩年には、戦国大名の武勇伝を聞くのが好きだった将軍・徳川家光から昔話を乞われ、慕われる存在だったという。

1636年4月、数年前より体調の優れなかった政宗が、無理を押して参勤交代で江戸桜田の藩邸に入った。
5月21日には、容態がよくない政宗を将軍家光自らが伊達屋敷に見舞っている。
行水まで行い、身だしなみを整えて将軍を迎えた政宗だったが、家光のお目見え後に症状が悪化し、3日後の5月24日に没した。

生まれるのがもっと早ければ天下を狙うこともできるほどの器量があった伊達政宗だったが、彼の人生の終盤はすでに戦のない時代になっており、彼の死に場所は戦場ではなかったのだ。

将軍家は、徳川御三家でもない政宗のために江戸で7日、京で3日人々に喪に服するよう異例の措置を講じたという。