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鳥居景近の辞世 戦国百人一首99

鳥居景近(?-1573)は、越前国(福井県)の朝倉氏の家臣である。
鳥居家には「与一左衛門尉」を名乗る系統と「兵庫助」を名乗る系統の2つがあり、景近は「兵庫助」を名乗ったとされる。与七という子があった。
朝倉義景の側近として仕え、取次役として外交的役割を果たしていた人物だ。
1573年(天正元年)に朝倉義景の軍は織田信長の軍に敗れたが、その際に自刃した義景の介錯を務めたのが鳥居景近だった。
景近は、主君と同じく六坊賢松寺で自害している。

先立ちし小萩が本の秋風や 残る小枝の露誘うらん  

先に出かけた小萩の本の秋風が 残った小枝の露を誘うだろう 

「先に出かけた小萩の本」を朝倉義景、「残った小枝」を残された家臣と解釈する人もいるようだが、ここは、景近本人と残された子と考えた。
「露」を「涙」だとするならば、のちに自害して主人を追った家臣がただ涙するというよりも、子供が自分の死を悲しむだろうとおもんばかりながら死んでいく景近の心情を表した最期の言葉。
主君のために働き、戦い、命を捧げた人物が最期に我が子を振り返った辞世なのではないだろうか。

もとは南都興福寺の僧兵(宗徒しゅとともいう)だった鳥居氏は、越前坂井郡(福井県にかつてあった郡)に代官として派遣されたのがそのまま土着した一族だ。朝倉氏の当主の側近として活躍し、鳥居景近の名前は、『朝倉亭御成記』にも登場する。

景近は、取次役と呼ばれる朝倉家の外交官的役割をした人物。
当主朝倉義景が発行する外交文書に添える副状を発給する役割を、同じ取次役の高橋景業かげあきらと2人1組で務めていた。
例えば、朝倉義景が別の武将に戦への参戦を書状で要請した場合に、景近ら取次役が、副状として要請内容の詳細を記して送るのである。
重要な役割といえよう。

室町幕府第15代将軍・足利義昭は、1570年ごろより織田信長を対象に「信長包囲網」を形成して対抗していた。反信長の立場を示した朝倉義景も浅井長政とともにこの包囲網を構成していた武将メンバーの一人だ。
一日一日と情勢が変わる重要局面の中、朝倉軍の鳥居景近らは他の反信長勢力たちと緊密に連絡を取りながら、さまざまな武将たちが自軍の味方につくよう複雑な駆け引きを行っていた。

しかし、1573年には包囲網の一角を構成していた有力武将・武田信玄が死亡。包囲網は瓦解し始める。
同年の刀根坂の戦いにて信長軍に敗戦し、一乗谷に帰還していた朝倉軍。
朝倉義景はその時点ですでに自軍の有力武将が幾人も戦死し、家臣の逃亡や離反、従軍拒否などを受けていた。
だが、信長軍は追撃の手を緩めない。
鳥居景近、高橋景業ら側近は自害をしようとする義景を制し、越前大野へと主君とともに逃れていった。
義景の従兄弟にあたる朝倉景鏡の勧めで六坊賢松寺に逃れた一行だったが、実は義景を裏切って信長方についていた景鏡は、義景が潜伏していた寺を攻撃。
信長との戦いには何度も出陣してきた景近は、ここでも景鏡の軍勢と戦っている。
ひと働きした景近はその後に寺に戻り、そこで観念した朝倉義景の介錯を務めている。
彼自身も、その後に主君を追うようにして自害したのであった。

現在、福井県大野市泉町に朝倉義景の墓がある。
そして、その傍らにあるのが2基の墓。
ひとつは高橋景業の墓、そしてもうひとつが鳥居景近の墓である。