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日本史関連の記事

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#最期の言葉

戦国百人一首 あと十首

「戦国百人一首」もあと10首を残すことになった。 誰もそんなことなど気にしてないかもしれな…

駒姫の辞世 戦国百人一首90

戦国の世には理不尽な死も多く見られるが、彼女の死もその一つである。 わずか15歳のおいまの…

佐々成政の辞世 戦国百人一首89

武将・佐々成政(さっさなりまさ/?-1588)は、尾張国春日井郡の在地豪族の家系出身である。 …

千利休の辞世 戦国百人一首75

偉大なる茶聖、千利休(1522-1591)は、商人であり茶人であったのに、まるで武士のように切腹し…

吉川経家の辞世 戦国百人一首63

辞世と共に、武将が子供たちに向けた遺書を紹介したい。 吉川経家(きっかわつねいえ)(1547-…

木付統直の辞世 戦国百人一首62

木付統直(きつきむねなお)(?~1593)は木付城(現在は杵築城)主・木付鎮直(しげなお)の…

武田信玄の辞世 戦国百人一首61

武田信玄(1521-1573)には持病があり、亡くなる前には喀血を繰り返していたという。 彼の病名は労咳(ろうがい/結核のこと)ではないかとの説もある。 享年53。死ぬには早い年齢だった。 彼の死のおかげで織田信長も徳川家康も命拾いした。 なぜなら彼は、上杉謙信と並んで戦国最強と呼ばれる武将だったからだ。 大抵 還他肌骨好 (大ていは地に任せて肌骨好し) 不塗紅粉 自風流 (紅粉を塗らず自ら風流) おおよそ此の世を生きるには、世の中の流れに身を任せるべきなのだ。 見せ掛け

武田信勝の辞世 戦国百人一首60

戦国大名としては、甲斐武田最後の当主・武田信雄(1567-1582)。 武田信玄の孫、長篠の戦いで…

沢庵宗彭の辞世 戦国百人一首59

江戸時代の臨済宗の僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)(1573-1646)は、漬け物の沢庵の考案者…

豊臣秀次の辞世 戦国百人一首52

「殺生関白」(摂政と関白という役職名にかけたあだ名である)と呼ばれるほど猟奇的で悪逆非道…

別所友之の辞世 戦国百人一首51

1578年から1580年にかけて約2年間続いた、羽柴秀吉との「三木合戦」において、「三木の干殺し…

筒井順慶の辞世 戦国百人一首㊼

彼には、明智光秀と羽柴秀吉が対決した山崎の戦いの時に、洞ヶ峠で日和見をしたという不名誉な…

伊香賀隆正の辞世 戦国百人一首㊻

伊香賀隆正(いかがたかまさ)(?-1555)は、大内氏の重臣だった陶晴賢(すえはるかた)の家…

松永久秀 最期の言葉 戦国百人一首㊺

松永久秀(1510-1577)は、日本の戦国三大梟雄(きょうゆう)として斎藤道三、宇喜多直家と並んで強烈な悪人だったとされている。 さらに日本初の爆死男の逸話が伝えられるインパクトの強い武将として知られる。同時に教養のある美男子だったそうだ。 「この平蜘蛛の釜と俺の首の二つは やわか信長に見せさるものかわ」 「この平蜘蛛の茶釜と俺の首の2つは信長に見せるものか」 おわかりのように、これは久秀の辞世の歌でも句でもない。 彼が1577年に信貴山城に立て籠もり、織田軍に包囲さ