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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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#和歌

戦国時代の辞世を集め、心を込めて「戦国百人一首」を作る試み

辞世とは死にぎわに残す歌や詩のこと。 仕事で歴史上の有名人についての記事を書くとき、彼ら…

高橋紹運の辞世 戦国百人一首86

豊後国を中心に勢力を伸ばした戦国大名大友宗麟は、家臣に「風神・雷神」を持っていた。 「雷…

諏訪頼重の辞世 戦国百人一首85

信濃の戦国大名で、諏訪氏第19代当主だった諏訪頼重(すわよりしげ/1516-1542)。武田信玄に切…

伊達政宗の辞世 戦国百人一首84

幼名・梵天丸。 伊達政宗(1567-1636)は5歳のときに疱瘡(天然痘)にかかり、右眼を失明した…

島津歳久の辞世 戦国百人一首83

島津と聞けば薩摩だ。 島津歳久(1537-1592)は、薩摩の守護大名で島津家第15代当主・島津貴久…

安国寺恵瓊の辞世 戦国百人一首82

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(1539–1600)は臨済宗の僧侶である。毛利家の一外交僧から豊…

太田道灌の辞世 戦国百人一首81

武将であり学者であり、非常に優秀だったと言われるのがこの太田道灌(おおたどうかん)(1432-1486)だ。 いわゆる戦国と呼ばれる時代のほんのスタート時期に活躍した人物である。 彼は、風呂場で主家によって謀殺されるという悲劇に見舞われた。 かかるときさこそ命の惜しからめ兼(かね)て亡き身と思ひ知らずば 前々から死んだ身と思い知っていなければ、こんな時には命が惜しいと思うだろうが、(戦に明け暮れ)もとから命は無いものと覚悟している自分は、惜しいことだとは思わない。 太田

中村文荷斎の辞世 戦国百人一首80

この人物を知る人はなかなかの歴史通かもしれない。 柴田勝家が切腹した時、勝家の介錯を行っ…

柴田勝家の辞世 戦国百人一首79(再)

注意:この投稿は、既にアップしていたNo.79の記事の再アップです。既読の方がいらっしゃった…

柴田勝家の辞世 戦国百人一首79

柴田勝家(生年未詳-1583)は、織田信長の重臣として活躍した武将だ。 通称「権六」、武骨な性…

市の辞世 戦国百人一首78

「お市の方」と呼ばれた市(1547?-1583)は、織田信長の妹、そして浅井長政や柴田勝家の正妻…

波多野秀尚の辞世 戦国百人一首77

名前から想像できる通り、波多野秀尚(はたのひでなお)(生年未詳 – 1579)は、『戦国百人一…

波多野秀治の辞世 戦国百人一首76

波多野秀治(はたのひではる)(1529?-1579)は丹波国(現在の兵庫県あたり)の大名で八上城…

伊賀崎治堅妻の辞世 戦国百人一首74

名前もわからない女性の辞世である。 そもそも武将・伊賀崎治堅(いがさきはるかた)の名を知っている人も多くはないだろう。 伊賀崎治堅妻(生没年未詳)は、豊臣秀吉が天下人だった時代の武将・伊賀崎治堅(?-1598)の妻だった。 死出の山したひてぞゆく契り置きし君が言葉を道の枝折(しおり)に 約束を交していたようにあなたを慕い、あなたの言葉を目印にして死出の山へと向かいます。 これは悲しい死の連鎖の話である。 毛利元就の孫・毛利秀元には、冷泉元満(れいぜいもとみつ)という家