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全体性を取り戻す:クリエイティブリーダーシップ特論 第10回 稲葉俊郎さん

このnoteは武蔵野美術大学 大学院造形構想研究科 クリエイティブリーダーシップコースの授業の一環として書かれたものです。

武蔵野美術大学 大学院造形構想研究科 クリエイティブリーダーシップコース クリエイティブリーダーシップ特論 第10回(2021/09/13)

講師:稲葉俊郎さん
稲葉さんは熊本出身の医師・医学博士で、現在は軽井沢病院の副院長でありながら、東北芸術工科大学の客員教授もされているなど、医療と芸術を繋ぐ幅広い活動をされています。

今回は医療と芸術を繋ぐ現在の活動に至るまでの、稲葉さんの歩みやゆらぎ、思考の遍歴、そして「全体性を取り戻す」ことについてお話いただきました。

現在に至るまでの道のり

講義は稲葉さんの生い立ちから、医療との出会い、そして現在の活動に至るまでを振り返る形で進みました。一つ一つのエピソードは切り取られた断片ではなく、それぞれが反響しあうことで、全体としての旋律を奏でています。以下に書くのは、その一部でしかないこと、ご容赦ください。


熊本高校を卒業して東大に入学した稲葉さんは、自らアポなしで研究者に突撃して勉強会を開くなど、自発的・積極的に様々なことを学んだといいます。山岳部にも所属し、山小屋の診療所でのボランティア活動なども行なっていたそうです。
 
東大病院で働き初めてからは、往診による在宅医療も行うようになり、「何もないところで医療をするとはどういうことか」という考えが強くなっていったといいます。
 
そして、医療との向き合い方や自分の人生について考え直す大きなきっかけとなったのが、東日本大震災です。
震災後東北でボランティア活動に赴き、惨状を目の当たりにし、「人間がいかに生きるか」「人が亡くなるとはどういうことか」と考えるようになったと言います。
 
そうした問いへの視座を与えてくれたのが、「能」だったと言います。
世阿弥の『風姿花伝』には、芸能は寿福増長の基だと書かれており、ここに医療と芸術の接点を見出します。
ただ「病気」を治すのではなく、人々を「健康」にする医療とはどういうことか、「病気学ではなく健康学を学びたかったのだと気がついた」と仰っていたのが印象的です。
 
理想の医療を実現するため、現在は東大病院から軽井沢へと拠点を移して活動されています。
2020年には山形ビエンナーレの芸術監督を勤め、「人間の全体性を取り戻す営み」である医療と芸術を結ぶ芸術祭をオンラインで実施。執筆活動なども含めて多岐にわたる分野でご活躍されています。


学生との対話(質疑応答)

学生:健康の定義とは?
稲葉さん:WHOの定義だと「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」。これはつまり、健康とは主観的尺度で、自分が満たされていると思うかどうかだということ。私は「今日死んでも悔いがないと思える」ような本当に充実した状態が健康ではないかと考えます。
 
学生:生と死の関係はどう捉えられるか
稲葉さん:言葉であれ芸術であれ、全て死者が考え出したものを受け継いできている。その歴史の流れに身を置くものとして、死者から見て恥ずかしくない生き方をしたいという思いがある。

学生:「生きる」とはどういうことか
稲葉さん:英語の「life」が生命や生活、人生などを表すように、本来それらは全て一体で切り離せないはず。分断やズレを接続しなおし、全体性を取り戻すことが人生といえるのではないか

学生:「死」との向き合い方、「死」をどう解釈すればよいか考えているが、答えがでない
稲葉さん:死に対する思考、感情、疑問が創造性につながる。芸術の誕生もそうしたところにあるのではないか。どこにどんな疑問を持つかが個性だし、考え続けることが重要。
 
学生:「健康」を維持するにはどうすればよいか
稲葉さん:自己治療のやり方を見つけることが重要。そしてその自己治療は、誰かを幸せにするものであるべき。私にとっては執筆活動が自己治療になっているし、アートもその一形態と言えるのではないか。


【感想】全体性と純粋持続

「全体性を取り戻す」という言葉がやはり印象的でした。
思い浮かんだのはフランスの哲学者ベルクソンの純粋持続という概念。ベルクソンは時間というものは本来定量的に分割できる均質で物質的なものではなく、質的な強度をもつ「流れ」であるとしました。そして、意識に直接与えられるような強度のある未分化の時間の流れを「純粋持続」と呼びました。
具体的な事例として、ベルクソンは「旋律(メロディー)」を取り上げます。私たちが音楽を聴いている時、バラバラの音としてではなく、ひとつのメロディーとして認識できるのはなぜでしょうか。ベルクソンは、そこに純粋持続の働きを認めます。一つ一つの音は、前の音を含みつつ、次なる音を孕み、全体として旋律を奏でているのです。

「これらの音が継起する場合にも、われわれはやはり一方の音の中に他方の音をも認めるのであって、それらの音の全体は、その身体各部に区別はありながら、お互いの結びつきの効果そのものによってそれらが浸透し合っている生き物にもなぞらえうるべきものだ」
——『時間と自由』ベルクソン 平井啓之訳 


私たちの人生、生活、いのちも、分断された要素の寄せ集めではなく、全てが繋がった一連の流れであると認識すること。それがまさに「全体性を取り戻す」ということなのではないかと私は解釈しました。

「まったく純粋な持続とは自我が生きることに身をまかせ、現在の状態とそれに先行する諸状態とのあいだに境界を設けることを差しひかえる場合に、意識の諸状態がとる形態である」
『時間と自由』ベルクソン 平井啓之訳 

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