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The Music of Little Erich

アーティスト志望の少年・淡音春人は、ヘッドフォンを掛けた奇妙な少女と出会う。
ムジカ・E・ツァン。ヴァイオリン演奏家の父親譲りの才能を持ちながらも伸び悩む彼女は、奇妙な装置を手に入れ、より高みを目指そうとする。

The Music of Little Erich

 彼女だった音が、まだぼくの耳元で響いている。

 ぼくが彼女と初めて会ったのは、夕暮れる5月の廊下。
 ふわふわと甘い声でハミングしながら歩くヘッドフォンの少女は、おぼつかない足取りでとても危なっかしく見えた。

『前から来る人とぶつからずに上手くすれ違うには、目を合わせれば良い』
ぼくの知るそんなトリビアは何の役にも立たず、真正面からぶつかった彼女は、面白いほどあっけなく廊下に転がった。

「だ……大丈夫!?」

 その光景を目にした人がいるなら、ぼくが小柄な女の子にわざとぶつかった、無頼漢にしか見えなかっただろう。幸い放課後の廊下には人影はなく、ぼくは彼女の乱れたスカートから覗く、ミントグリーンのボーダーに気を取られながらも、慌てて手を差し伸べた。

「書くものかして!」

 ぼんやりしていた彼女は、ぼくの手を取る事無く、自らも手を差し伸べて要求する。

 ぼくの制服の胸ポケットには、いつも5色のマーカーが挿さっている。

 こぼれるこぼれると呟きながら、座り込んだまま手指を中空で奇妙に躍らせていた彼女は、ぼくからマーカーを受け取ると、猛烈な勢いで壁に走らせ始めた。

 呆気に取られるぼくの目の前に生まれるのは、雑然と書かれた青いおたまじゃくしの群れ。
 葡萄酒色に染まる壁に、おそらく書いた本人にしか判読できない譜面が描かれてゆくのを、ぼくはある種の感動を抱きながら見つめ続けていた。

「またお前か、ムジカ・ツァン!」

 泣き出しそうな、笑い出しそうな顔でこめかみを押さえる老教師の声で、ぼくは彼女の名前を知った。

「あとで生徒指導室まで来い。淡音春人(あわね・はると)、お前もだ」

 ぼくの頭に拳骨を落とすと、老教師はその場を後にした。状況を最初から目にしていなければ、2人仲良く壁にラクガキしていたように見えても仕方が無い。でも、ぼくにだけ拳骨をくれるのは、時代遅れの性差別なんじゃないか?

 頭に浮かんだ旋律を捕まえ損ねたのか。少女は小首をかしげ眉根を寄せたまま固まっている。

「壁を綺麗にしてからだぞ!」

 途方に暮れるぼくに、老教師の追い討ちが炸裂した。

 ムジカ・E・ツァン。海外からの交換留学生で、専攻はヴァイオリン。
 なのに、学園に来てから、彼女がヴァイオリンを弾く姿を見たものは一人もいない。
 常にヘッドフォンを手放さないなど、奇矯な振る舞いで有名。
 ミューズと呼ぶには少し足りない彼女に付けられたあだなは、音楽室のミュー。
 父親はCDが出ているほどの有名演奏家なのだそうだ。
 レコードショップのクラシックの棚で確認して、少しだけ感動した。

 翌日の昼休みに、彼女の呼び出しを受けた。
 あの後、あまり役に立たないムジカと共に壁の譜面を消し、生徒指導室でたっぷりとお説教を喰らった、そのお詫びなんだそうだ。

 約束の中庭に彼女の姿が無い事を確認し――思い付きで裏庭に廻ってみる。
 ヘッドフォンを掛けた少女が、芝生に座り込んで頭を揺らしていた。

「やあ。お招きありがとう」

 待ち合わせは中庭じゃなかったっけ? という問いは省略した。なんとなくだが、彼女の行動パターンが把握できたからだ。

 ムジカは顔を上げると、僅かな逡巡の後、手にしたものを差し出した。

「……スペシャルカツサンド。昨日のおわび」

 学園の幻のメニュー、スペシャルカツサンド――一日限定15食。ぼくもまだ2度、それも友人から分けてもらってしか口にした事が無い――ひとくち分ほどかじってあるけど。

「……ありがとう。君の分は?」

 ぼくのために苦労して手に入れてくれはしたけれど、その芳醇なソースの香りの誘惑に抗いきれなかったといった所か。

「もうたべた。いっしょにたべたかったよ……」

 しょんぼり肩を落とす彼女と、かじられたカツサンドを前に、気力が萎えかける。

「じゃあ、半分こにしようか?」

 一瞬、大きく目を見開くも、ゆるゆると首を振るムジカ。

「それはきみのぶんだから……」

 何故だかだんだんぼくが悪いような気分になってきた。

「それじゃあ、全部あげる」
「?」
「だから半分貰えるかな?」

 茫洋とした目でしばらくぼくを見詰めていた彼女は、やがてこくこくと頷くと、ぼくから受け取ったカツサンドを二つに分け、少し考えて大きい方をぼくにくれた。かじったほうだけど。

 隣に腰を下ろし、カツサンドを口にする。確かに旨い。けれど、この量じゃあ午後の授業中に腹の虫が騒ぎ出してしまいそうだ。

 ムジカはぼんやりとした表情のまま、一定のペースでカツサンドをかじっている。

「これからは、五線譜ノートを持ち歩くと良い。じゃなきゃ、ポケットに入るメモとか……」

「!!」

 何を言いだすのこのひと? と云わんばかりの顔を向けた後、すごい勢いで頷いてみせるムジカ。

 こんな簡単なアドバイスにこうも感心されると、逆にいたたまれないほどの恥ずかしさを感じる。

「用意しゅうとうだね。それじゃあ、きみのマーカーはどこでも絵をかくため?」

 尊敬の込められた眼差しに羞恥が倍増する。ぼくがマーカーを持ち歩く理由は、海外で直に目にしたウォールアートに憧れて、いつか作品を仕上げてみたいと思っているからだ。

 もちろん、正式にそれを依頼される実力はまだ無くて、かと言って、無断でゲリラ的に描き残して行けるほどの勇気と無謀さも持ち合わせておらず。ただイメージを掻き立てる壁の前で、画用紙を広げてスケッチしてみるのが今のぼくの精一杯なのだけれど。

 だから、躊躇なく白い壁にマーカーを走らせた彼女に、ある種の羨望を抱きつつ見蕩れてしまったわけで。
 正直に話してみせると、彼女は

「いつかかけるといいね。わたしも見てみたい」
 そう云って微笑んだ。

 ムジカの笑顔に何故だか狼狽したぼくは、彼女自身の話しに水を向けた。

 絶対音感という物だろうか。2歳の頃からバイオリンを手にし、聞くだけで、楽譜を目にするだけであらゆる曲を弾きこなす能力を持つ彼女は、周囲からさらに高いレベルを求められていた。ムジカは感情を音で表す事でそれに応えたが、次第に求められる物とのずれが生じてきたらしい。

「父さんはもうわたしに期待してないみたい」

「そんなことないだろ……スランプってやつだよ」

 アドバイスしようにも、レベルが高すぎる。

 同じ茫洋とした表情のまま声を落とす彼女に、門外漢のぼくでは、気休め程度の言葉しか掛けられなかった。

 食欲がなくなったのか、食べかけのカツサンドを膝に置き、水筒に手を伸ばす。
 ステンレス製の水筒を爪弾きながらちちちち、と彼女が舌を鳴らすと、背にした樫の木から、小さな影が駆け下りてきた。

 ふさふさしたしっぽ……シマリスか。慣れているらしく、ムジカの手からカツサンドを受け取り、その場でもふもふとかじり出した。病気の伝染を心配したが、彼女とは昼食を共にする仲というだけのようだ。べたべた撫で回して、爪で引っ掛かれたりしなければ問題はないだろう。

「すごいな。なんだか話が出来るみたいだ」

「エサがあるときのよび声がわかっただけ。鳴きかたの種るいがわかって、ちょうどいい楽器があれば、ゾウでもキリンでもおなじこと」

「そうなの!?」

 動物研究者が録音機器でやっている事を、彼女は何の気負いもなく耳と演奏技術でこなしてしまえると言い切っている。冗談のつもりではないのだろう。

「データレコーダって知ってる? 昔のコンピュータでつかってた記憶ばいたい」

 現物は見た事は無いが、知識としては知っている。

「あれのかわり、ヴァイオリンでできるよ。音響カプラつかってデータ送ってみたこともあるし」

「なにそれすごい!!」

 音のいみがわからないから、ありものの真似するだけだけどねと、自嘲めいた笑みを浮かべる。

「色も形も香りもぜんぶ理解できて、それを表げんできる楽器があればね……」

 父さんにだって認めてもらえるのに。

 彼女が飲み込んだ、続くはずだった言葉が理解出来てしまった。
 こんなにすごい才能を持っているのに、どうして苦しまなければならないんだろう。

 口にしたカツサンドは半分だけなのに、ぼくの胸は何か別のものでいっぱいになってしまった。

 彼女とは、昼食を共にする程度の仲になった。
 お互い約束はしていないけれど、裏庭でぼんやりとしている姿を見つけると、隣に座って昼休みを過ごす。

 授業をサボりがちだから、スペシャルカツサンドを手に入れられたことや、極度の弱視なのにコンタクトも入れていないこと。エサを食べにくるリスに、リスモと名前を付けたこと。寮住まいなことや、放課後は音楽室で過ごしていること。

 少しづつムジカのことを知る事が出来たが、彼女がヴァイオリンを弾く姿は、未だ目にした事が無い。

「それ、何聴いてるの?」

 小作りな彼女の頭には不釣合いなほど大きくて高価そうなヘッドフォン――検索してみたら、実際目玉が飛び出るほどの価格だったのだが――が気になって、尋ねてみた事がある。

 無言で手渡してくれたそれを、微かに残る彼女の体温を感じながら掛けてみるも、何も聞こえない。会話の邪魔にならないように、極小さな音で鳴らしているのでもなさそうだ。

 けげんな顔を返したぼくにムジカは、

「そうやって、じぶんのなかの音をつかまえる」
 こくこくと頷いてみせる。

 ヘッドフォンのコードは胸ポケットに収められた、MP3プレイヤーに繋がっているようだが、それに何が入っているのかまでは教えてもらえなかった。

 夏が近付くにつれ、裏庭で彼女の姿を目にする事が少なくなった。授業にもほとんど出ていないらしい。

 放課後、ぼくは思い切って音楽室に彼女を尋ねてみた。練習中だった吹奏楽部員は、第2音楽室にいるんじゃないかと教えてくれた。旧校舎の端にあるそこは、使われていない楽器を仕舞ってある、実質的には倉庫のような部屋だ。

 使われている教室自体が少ないためか、人気の無い廊下を歩き、第2音楽室へ向かう。途中、壁に鉛筆で書かれた音符の群れを幾つか目にした。筆記具は持ち歩く様になったみたいだけれど、ノートの方は忘れたままなのだろうか。

 扉を開けると、異様な光景が目に飛び込んできた。
 壁中びっしり楽譜で埋め尽くされ、床にも音符が書き散らかされたノートの切れ端が乱雑に投げ捨てられている。

 薄汚れた毛布を敷物に座り込んだムジカの左手には、ヴァイオリンケースが置かれているが、彼女の意識が集中しているのはそれではない。

 目の前に置かれた、古ぼけた奇妙な装置――コピー機ほどの大きさで、真空管やアナログメーターが目立つ、一見すると古いラジオか通信機のような物――のボリュームを、無心に調整している。

「ミュー!?」

 肩を叩かれ、ようやくぼくに気付き振り向いた彼女の顔には、寝不足と疲労を示す隈が黒々と描かれていた。

「きみか。なんだかひさしぶりだね」
 奇妙にハイな調子で応える。

「ちゃんと寝てる? 今日はもう帰って休んだ方が良いんじゃない?」

「それよりきいて。この世のすべての音を捕まえる方法がわかったよ!」

「本当に? すごいじゃないか! おめでとう……」

 悩んで篭った成果があったという事か。ぼくには理解できないレベルの話とはいえ、彼女自身が納得できる答えが出たのなら、それは素直に賞賛すべき事だ。それなのに、熱に浮かされた彼女の瞳を目にし、ぼくは得体の知れない不安を感じざるを得なかった。

「その機械は? ここにあったの?」

「ううん。でも、これで音をつかまえる……ちがうな、音をつかまえるものをつかまえる」

 帰り支度をするでもなく、再び装置に向き直ってしまったムジカを説得する材料を探していたぼくの目に、彼女と装置の間に置かれたものが写る。

 空のペットボトル。食べかけのチョコレート菓子。周波数か何かか、数字の羅列が書かれたメモ。『REVELATIONS OF GLAAKI Ⅸ』と題された、手書きの冊子。その上に文鎮代わりに置かれている、緑色のガラス細工は――

「――リスモ?」

 ボリューム摘みを弄っていたムジカの手が止まる。

「そう。リスモの音はつかまえたよ」

 装置からヘッドフォンのプラグを抜き、ヴァイオリンケースに手を伸ばす。

「聞いてみる?」

 一度も耳にしたことの無い、ムジカの演奏を聴くことが出来る。それに、彼女を連れ出す切欠になるかもしれない。溢れる好奇心に言い訳めいた理屈を付けながら、ぼくは部屋の隅にかためられていた椅子の群れから一脚を取り出し、腰を掛けた。

 肩と顎で固定すると、彼女は滑らかに弓を滑らせ始める。リスモの曲だとあらかじめ聞いていたからだろうか。技術云々は解らなくても、森の中を小動物が楽しげに跳ね回る姿が頭に描かれる。

 曲の調子が変わる。

 不安。大きな生き物がいる。
 でも、食べ物があると呼んでいる。
 おっかなびっくり近付いてみる。
 差し出される見知らぬもの。恐る恐る口にする。
 美味い!
 木の実や昆虫とは比べ物にならない脂質の多幸感。
 この大きいのは良いヤツだ!

 凄い! リスモとミューの出会いの光景が、説明されずとも目に浮かぶみたいだ!

 かさり。後で何かの気配がする。
 振り向くと、小さな影がばら撒かれた紙の上を走る姿が見えた気がした。

 かさり。今度は前で。
 視界の端を、栗色の縞模様がかすめた。

「部屋の中にリスモが入り込んでる?」

 ムジカが満足げに微笑む。
 その足元で、触れてもいないのにガラス細工が澄んだ音と共に砕け散った。
 演奏が終わると共に、部屋の中を跳ね回っていた気配も消える。

 気のせいだったのか?
 それとも、どこかに隠れたんだろうか?
 少し気味が悪い。

 きょろきょろしていると、ムジカが毛布にへたり込んだ。演奏で体力を使い果たしたらしい。

「ごめん、無理させて!」

 慌てて近寄り寮へ帰るよう促すも、ここで休むという。不審に思い問い詰めると、ここで何泊かしているらしい。夏休みに解体作業に入るため、旧校舎の警備システムは減らされて行っているそうだ。彼女は警報を鳴らさず、夜でも外や寮へと行ける抜け道を幾つか確保したのだとか。

「いや、それでも見回りとかくるんじゃあ?」

「そのときは、こうやって床と一体化する」

 毛布をかぶって平たくなって見せる。

「あ……うん」

 毛布と床の色が違う。一体化できていない。
 それでも、未だ見付かっていないという事は、それだけ警備が甘いという事だろう。

 悩んだが、もうムジカはスランプを脱しつつあるようだ。秋のコンクールで演奏しなければ、さすがに問題になると聞いている。頑固というか、人のいう事をまるで聞かない、自由すぎる彼女を無理に連れ出すよりも、気が済むまでやらせた方が良いのかも知れない。

 ぼくは彼女を残しコンビニで弁当や携帯食料を買い込むと、彼女に教わったルートを辿り第2音楽室に戻った。ムジカは食欲はなさそうだったが、もそもそと携帯食をかじり、ペットボトルの紅茶で流し込んでいる。

 抱きかかえてでも連れ出すべきだったと後悔するのは、その2日後の事だった。

 ムジカが病院に運び込まれた。
 旧校舎の廊下で倒れている所を発見されたらしい。

 じっとりと重く灼け付く罪悪感と焦燥感を抱えたまま、苦役のような永い授業を終えたぼくは、噂好きの女子から聞きだした病院へ自転車を走らせた。

 受付でクラスの保健委員だとか、先生に連絡事項を伝えるよう頼まれたとか、もっともらしい事を説明すると、すんなり病室を教えてもらえた。
 過労と栄養失調が原因のようで、いまは点滴を受けているという。
 大事じゃないようで、少しだけ安心した。

 女の子の寝顔を覗くような真似は失礼じゃないだろうかとか、見舞いの品を何も持って来ていないとか、それでも謝っておくべきだろうとか。埒もなく考えを巡らせながら病室に辿り着く。

 ベットに横たえられ、彼女は眠っていた。
 小枝のように細い腕に刺さった点滴針が痛々しい。目の下の青黒い隈が、疲労の深さを物語っている。

 それでも、寝顔は穏やかで。少しだけ開かれた窓から吹き込むそよ風が、細い栗色の前髪を揺らす。

 彼女に触れたい気持ちを抑え、病室を去ろうと踵を返したぼくの手を、点滴をしたままの彼女の手が繋ぎとめた。

 道に迷った、幼子のような。
 彼女の瞳に揺らめく物に、さっきまでの焦りや不安がぶり返しそうになるが、全てを飲み込んでぼくは微笑んで見せた。

 がんばったね。
 もう少しなのかい。
 でも、今はゆっくり休んだほうが良い。

 言葉には出さず、穏やかに彼女の手を叩きながら。
 再びムジカが眠るまでの短い時間を、ぼくは病室で過ごした。

 翌日、ずいぶん迷った挙句、りんごと比べ剥かなくて良いという理由で買ったいちごを手に、ムジカの病室へ急いだぼくは、ちょうど病室から出る所だった一人の女性と鉢合わせした。
 訝しげな顔をされたのでクラスメートだと説明する――正確には違うのだが、話をあえて難しくする事も無い――と、

「あなたなの? ムジカと一緒になって壁に落書きしたり、音楽室に寝泊りしてるのは!」

 誰から何が伝えられていたのか。苛立たしげな反応が返された。
 誤解もあるが、間違っていない部分もある。ぼくが説明しかねていると、女性は腰に手を当て、聞こえよがしに溜め息を吐いて見せた。

「どれだけ程度の低い学校なのかしら。夏までの子守りも任せられないなんて……」

 ムジカの面影がないので気付かなかったが、どうやら彼女の母親らしい。夫の演奏旅行中、わざわざ日本くんだりに呼び出された事がご不満のようだが、倒れた娘の心配どころか、託児所代わりに留学させたかのような物言いで、赤の他人であるぼくに対して、厄介払いだった事を隠す気も無いらしい。
 正直憤りを感じたが、続く一言に頭が真っ白になった。

「仕方ない。連れ帰るしかなさそうね」

 結局ぼくはひとことも言い返せず、彼女にも会えぬまま病院を後にした。

 家に帰り、味もわからない夕食を済ませ、何も考えられないままベッドに突っ伏していたぼくの耳元で、携帯の着信音が鳴り響いた。
 一瞬、ムジカからかと淡い期待が頭を掠めたが、彼女に番号を教えた事はないし、ぼくも彼女のものを知らない。

「――淡音、ムジカ・ツァンと一緒じゃないか?」

「いえ……寝てました。何かあったんですか?」

 担任教師からの質問の意図を理解しかね、間の抜けた答えを返したぼくに、先生は見かけたら連絡するようにと伝え、慌しく通話を終えた。

 ムジカが病院を抜け出したらしい。

 そう理解したぼくは、直ぐに家を飛び出し、旧校舎の第2音楽室へ向かった。
 隠した訳じゃない。聞かれなかっただけだ。それに、先生達もすぐに思い当たるはず。

 もう彼女と会えなくなるかもしれない。その前に、もう一度話がしたい。
 ただそれだけを想い、ぼくは夜の道を急いだ。

 彼女に教えて貰った抜け道を通り、学校の敷地内に侵入する。見上げると、旧校舎の2階の一室に灯がともっていた。隠れるつもりもないらしい。

 息を切らせて第2音楽室に飛び込むと、いつか見たのと同じ様に、病院のパジャマを着たムジカが装置の前に座り込んでいた。

「はるとくん、みつけたよ。間にあったんだ!」

 甘い声でハミングしていた彼女が、喜声と共に振り返る。

 痛々しいほどやつれた姿。初めて出会ったときから、さらに一回り小さくなったような。それなのに、瞳だけが奇妙なほど熱を帯びているのに、言いようの無い不安を覚えた。

「みんな心配してるよ。さあ、帰ろう」

 曲が完成したのか、インスピレーションを得られたのか。どちらにせよ、身体を休めるのが先決で、血の繋がっていないらしい母親の説得はその後だ。成果を示せば、ムジカを煙たがっているらしい義母は、 日本での滞在を割とあっさり認めてくれるんじゃないか。

 微笑みながら差し出した右手は、微笑みながら小首をかしげた彼女に拒絶される。

「帰らないよ。これからはじまるんだから」

 ちりんと。どこかで小さな鈴が鳴り響いた。

 奇妙な装置は重い作動音を響かせながら動き続けている。
 プラグで装置に繋いだヘッドフォンを耳に掛けたムジカは、再びハミングを奏で始めた。

「lala――alhara――lalalah――ah――arh――llahara」

 彼女の甘い声に合わせ、ディナーベルのような、トーンチャイムのような音が重なり始める。

「lah――lahraha――llahr――ah――rarala――rhalla」

 装置からじゃない。スピーカーが見当たらない。重なり交じり合うチャイムの音が、次第に大きくなる。

 装置の上に青緑色のガラスが浮かんでいる。……いや、ガラスじゃない。液体のように表面が波打っている。チャイムの音で啼いていたそれの表面に、内側から湧き出るように黄色い眼球が浮かぶ。ヒトのものではないそれは落ち着きなく視線をさ迷わせていたが、ぼくを見付けるとしばし凝視した。

「――ひ……」

「rah――」

 彼女が声を掛けると眼球は視線を外した。代わりに不揃いな歯の並ぶ半開きの口や、昆虫の足にも、植物の茎にも見えるものを浮かべては引っ込めながら、徐々にその体積を増してゆく。

「ようこそアラーラ。しらない世界のはらぺこの神様」

 彼女の茫洋とした瞳には別のものが見えているのか。恐れも見せずムジカは異形の存在に語りかける。

「なにかかたちが見えるかもだけど、これの本質は音のあつまりなの。いつもお腹をすかせてて、なんでも食べちゃうんだけど、そのときたべものを音にかえる――」

 不意に緑色のガラス細工のリスモが砕けた時の音を思い出した。

 ――音?
 ――ぼくもムジカも触れなかったのに?

「いつか世界がほろんで、何もなくなっても。わたしが音を覚えていたら、そこからなんでも再現できる。それってステキなことじゃないかな?」
牛ほどの大きさになったそれが、細い足の先についたベルのような物を、涼しげな音と共に伸ばしてくる。

「ひぃやぁぁッ!!」

 本能的な恐怖から、みっともなく悲鳴をあげへたり込んだぼくにしかし、その足は届かなかった。

 彼女の手が、それ――アラーラ――の足を掴んでいる。
 傷付けられた、今にも泣き出しそうな顔。

「嫌だ! 嫌だッ!!」

 はっきり目にしたはずなのに、その時のぼくには彼女を気遣う余裕など欠片も無かった。

 ゆらゆらと引き戻されたベル状の器官は、仕方ないといった体で、足を掴む彼女の左腕に張り付いた。

「ミュー!!」

 彼女の顔が苦痛に歪むのを見ても、ぼくの身体はいう事を聞かない。自分の生き意地の汚さを罵る言葉と自己弁護だけが、呪いのようにただ脳内で繰り返される。

「……そうだね。怖いね。こんなに痛いもの……」

 何かを吹っ切るようにぼくに微笑んで見せると、ムジカはヴァイオリンのケースに手を伸ばす。

「じつはね、探し物のもう一つも見つけたんだよ」

 恐ろしいまでの早弾き。無数のチャイムの調べを掻き消すように、狂おしくヴァイオリンが泣き叫ぶ。

 やがてムジカの独奏に、何処からかか細いフルートの音色が重なり、合奏になる。

「なんでも弾きこなせる、わたしじしんが楽器になる方法――」

 一瞬、チャイムの音が一斉に鳴り止んだ。困惑と焦燥。異形の存在のあるはずのない感情を、何故だかぼくはその時だけ理解できた。

「――もうここにいられなくなっちゃうけど……」

 窓の外の景色が一変している。
 真の闇の中、形の無い者達が踊り狂っている。
 直視してはいけない。本能的な警告に、思わず視線を下げる。

「ごめんね。やくそくやぶる事になるけど、そこはそんなに悪い所じゃないとおもうよ」

 異界の神に語りかけるムジカ。ベル状の器官に張り付かれた彼女の腕は、前腕部が緑色のガラスに変化してしまっている。

 ヴァイオリンの音色は、いつしか彼女の声のように甘やかなものに変わっている。か細いフルートの音色も、ぎこちなく彼女のリードに合わせてくる。

 再びけたたましく鳴り始めたチャイムの響きが伝えるのは、驚愕と恐怖。――戯れに指を伸ばしたアリにかみ殺される人間は、こんな気持ちを抱くのだろうか――

 暴力的な轟音に耐え切れずに耳を塞いだぼくには、彼女が最後に残した言葉は伝わらなかった。

 気が付くと、彼女の姿はどこにも無かった。第2音楽室の半分と、異形の神とを道連れに、ムジカはぼくの前から姿を消した。

 押っ取り刀で駆けつけた教師や警察は、当初ムジカが旧校舎の壁の崩落に巻き込まれたものとして捜索を始めたが、彼女の痕跡を何一つ発見できなかったらしい。行方不明者として警察に捜査依頼が出されたようだが、手掛かりが見つかる事は無いだろう。

 警察以外にも、黒いスーツのおかしな連中が調査に入ったという噂もある。耐震構造に問題が無かったかを調べる国の査察だとか、建築業者の不正を疑った理事長が呼んだ建築士とその筋の人間だとか、ある事ない事まことしやかに語られたが、綺麗な真円状に抉られた校舎の崩壊面に驚きもせず、淡々と装置の残骸と黒いノートだけを回収して行ったという話は事実の様に思う。

 これらの話をぼくは後から聞いた。
 あの日から一ヶ月間、ぼくは聴力と言葉を失っていたからだ。

 おかげで煩く追求される事なく、世間が納得したい形で落ち着いた頃に退院する事が出来た。

 入院中、両親や悪友たちのほかに、一人の珍しい訪問者を迎えた。
 以前CDのジャケットで見た顔――ヴァイオリン奏者である、ムジカの父親だ。
 苛立った調子で何かをまくし立てる妻を室外に待たせ、穏やかな調子で何かを語りかける。

 ミューは、あなたに認めて欲しかったんですよ。

 口が利けたとしても、彼女の想いを万分の一でも伝えられたとは思わないけれど。
 何一つ伝える事が出来ず、悔しさともどかしさで声もなく泣き出したぼくを、落ち着くまで彼はただ見守ってくれた。

 退院して直ぐに、ぼくは旧校舎に潜り込んだ。
 崩落の調査のため日程が多少ずれ込んだが、夏休みに入り、解体のための足場が組まれている。
 人の姿は無いが、明日にでも工事が始まるようだ。

 夕映えの第2音楽室には、予想外に先客がいた。
 黒いゴシックドレスを身に纏った少女。金髪に碧の瞳で、人形のように愛らしい。
 ドレスの右手の袖が風にゆれ、隻腕である事に気付く。欠けたパーツが少女の美しさに妖しい凄みを持たせ、何故だかあの夜を思い出す。

 もちろん、学校の生徒じゃない。ミューのような留学生も他校に比べればずいぶん多く在籍しているが、これだけ目立つ少女を見知らぬはずが無い。

「あ? ……当事者か。邪魔したな。すぐに消えるよ」

 顔に似合わぬぞんざいな口調にも面食らうが、そんな場合じゃない。

「ま……って。何かし……てるの!?」

 喋れない期間が長すぎて、慌てるとまだ上手く話せない。それでも少女は、笑うでも馬鹿にするでもなく、真っ直ぐにぼくの顔を覗き込む。

「アラーラは『黒の淵』では数えられていない神だ。『実験』には係わっていない。神智研の管轄外だから優先度が低いと判断していたが……こんなに事態が早く進行したうえ、トルネンブラまで顕現するとはな。巫女がよっぽどとんでもないヤツだったか……」

 ぼやき気味の彼女の話には、知らない単語ばかりが並んでいたが、ムジカが賞賛されているように感じて、ぼくは少しだけ得意な気分になった。

「……ここに『グラーキの黙示録』の写本か、異次元通信機、あるいはその両方があったはずだ。出遅れたとはいえ、どちらかでも手に入ればと思ったんだがな」

 ムジカの持っていた『REVELATIONS OF GLAAKI Ⅸ』と記されたノートを思い出す。装置の残骸の事と共に黒服の男達に回収されたらしいと伝えると、少女は口元を歪めて四文字言葉を吐き捨てた。

「……ったく、抜け目の無いこった」

「ま……って、一つだけ教えて」

「あ?」

 まだ何かあるのかという、不機嫌な態度を隠そうともしない彼女にたじろぎながら、入院中ずっと頭を巡っていた問いを投げかける。

「ミューに……ムジカにもう一度会う方法はある?」

「それを聞いてどうするよ?」

 表情を消した少女が、平板な声で問いを返す。綺麗な顔立ちだけに、逆に背筋に冷たいものを感じる。

「あ……会いたい! もう一度、もう一度だけ……」

 失ってから気が付いた。あのとき、神に喰われて音になってでも、彼女の側に居られればそれで良かった。そうすれば、彼女をあんなに傷付ける事はなかったのに。

「なら、あたしなんかに聞くまでもない。方法が有るか無いかじゃない。お前がやるかどうかだよ」

 投げ出すような、雑な口調。
 それでも、泣き出したいほど厳しくて、縋りつきたいほど優しい答えをくれる。

 抉り取られた崩落面に歩み寄った少女は、ふと何かを捕まえるように中空に手を伸ばす。見ると、少女の掌中に手品のように青いMP3プレイヤーが現れた。

「連中の中に、魔術班の人間はいなかったようだな。向こう側に落ちかけて、引っ掛かってやがった」

 放り投げられたそれを、慌てて捕まえる。間違いない、ムジカのものだ。

「話の駄賃だ。どのみち、あたしには用の無い物だからな」

 そう言い残すと、少女は躊躇いもせず崩落面へ踏み出した。驚いて駆け寄ったが、黒衣の少女の姿はもうどこにも見当たらなかった。

 MP3プレイヤーの中には、幾つかのリストに分けられたファイルが収められていた。

 彼女が住んでいた町の風景。家族のスナップ写真。見上げる仔猫。幼い彼女。

「Papa」と名付けられたリストには、ドイツ語らしい会話の切れ端。「Guten Morgen」「Musica! Gut gemacht!」「Gutes Kind,Musica」 艶のあるテノールの男声の主は、彼女の父親か。

「Freund」のリストには、日本語の会話の欠片たち。「だから半分貰えるかな?」「なにそれすごい!!」「おめでとう」「ムジカ」「ミュー」始めは気付かなかったが、これはぼくの声だ。いつのまに録音していたのか。

「Musica」と名付けられたフォルダには、ファイルが一つだけ入っていた。
 聞き覚えのある甘いハミングと共に奏でられる、緩やかな旋律。これはあの夜、彼女が弾いた最後の曲だ。

 ありがとう。

 すき。

 だいすき。

 あいしてる。

 音に感情を込めるというのは、こんなに凄い事なのか。
 彼女のつたない愛の言葉が、溢れる想いが伝わってくる。
 こんな事ができるなら、最初から神様なんか要らなかったじゃないか。

 繰り返し曲を聴きながら、ぼくはマーカーを握る。
 あいのうたに包まれながら、ぼくは壁にぼくを刻む。

 日が落ち、部屋に闇が満ちた頃、ぼくの初めての作品が完成した。
 ヘッドフォンを掛け、穏やかに微笑む彼女と、寄り添うリスモ。
 この部屋も、夏が終わる頃には取り壊される。
 もう彼女にぼくの絵を見せることは叶わないけれど。
 ぼくの耳には、まだ彼女だった音が響いている。

                    The Music of Little Erich. END


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