つれづれ雑記*電信柱と電線、の話*
先日所用があって、高級住宅地、といわれる街に出掛けた。
さすが、お屋敷街といわれる地域、きれいな街並みだなぁと思いつつ歩いていると、ふと思った。
何だろう、この妙な感覚は。
この開放感?とも言えるが、何となく頼りなく寄るべない感じは。
しばらくキョロキョロしていて気付いた。
電線が、ない。
そう言えば以前に聞いたことがある。
電信柱と電線は邪魔だとか。
路傍の電信柱は通行の妨げになるし、狭い交差点の上空であちこちから来ている電線が縦横無尽に行き来している図はごちゃごちゃして、いかにも生活感が満ち満ちており、何というか、もっさりして垢抜けない。
と、いうことで、ここのようなお洒落な街では、電線が地下に埋められることが増えているそうだ。
費用は莫大なものだと思うが、そこは高額
納税者の多い地域ならば何とでもなるのだろうか。
この、何となくサッパリとした景色はそういうことだったのだ。
電線の埋設化は世界的にもどんどん進められているという。
日本は少々立ち遅れ気味らしいが、少しづつ広がってきている。
もちろん、潤沢な資金が賄える大きな自治体や景観を重要視する観光地から、のようだが。
それに反対する理由は、私にはない。
確かに電柱や電線がないと、景観はすっきりときれいだ。地中に埋められていることで暴風や積雪による電線の切断事故もぐんと減るだろうし、老朽化も遅らせることができるのだろう。地震などの災害時にも電柱が倒れたりして緊急車両の通行の妨げになることもない。
いい事ばかりなのだ。それは理解している。
なので、ここからの話は昭和生まれの偏屈で天邪鬼なちょいひねくれ者の言葉だと思って聞き流していただきたい。
実は私は電信柱や電線が、嫌いではない。
子どもの頃、学校の帰り道に何人かで連れ立っているとき、ジャンケンをして負けた者がひとりで全員の荷物を持って歩くゲームをよくやった。(今やると、イジメに繋がるとか言われそうだが)
1回に歩く距離は電信柱から次の電信柱までと決まっていた。場所にもよるがだいたい50メートルくらいだったと思う。
電信柱に着くとまたジャンケンをして荷物持ちを決める。
ただそれだけのことなのだが、そこは子どものこと、キャーキャーワーワー言いながら結構盛り上がった。
(車の多いところでは危険なので、良い子は真似をしないでね)
高校生になって、朝寝坊して電車に乗り遅れそうなとき、駅までの道を全て走り通すのはとても無理なので、電信柱から電信柱までの間を交互に走りと歩きを繰り返す、ということをよくやった。
そのうち、何時くらいにどの電信柱のあたりにいれば、このペースで間に合う、などと計算できるようになった。
道路の端には電信柱があるのが当たり前だったし、道路上の空には電線があるのが当たり前だった。
見上げると、さまざまな太さの電線が電柱の間を少しのたわみを保ちつつ、どこまでも伸びている。
詳しくは知らないが、あの電線にも電話線、低圧電線、高圧電線、テレビのケーブルなど、さまざまな種類があり、(少々ごちゃついているようには見えるかもしれないが)メンテしやすいように整然と種類分けされている。
ときどき、高所作業車で電信柱と同じ高さまで上がって、新しく電線をひいたりメンテナンスをしている作業員の方々を見かけるが、その手際や作業の工程を見ているとすごいなぁと感心してしまう。
空を横切る電線を眺めるのが好きだ。
いろんな時間、いろんな場所で電線を見上げながら歩いた。
黄昏時、茜空を背景に電柱が影絵のように浮かび上がるのもいいし、丸い大きな月が電線にかかっているのもいい。
早朝、電線を五線譜にして音符のようにツバメやスズメが止まっているのもいい。
青い空が電線で潔くスパッと三角や四角に切り取られているのもいい。
夜、冷たい北風に吹かれた電線がヒューヒューと唸り音をあげるのもいい。
電車やバスの窓から田畑や丘陵地に巨大な鉄塔がずらっと立ち並び、高圧電線が遥か向こうのほうまで続いているのを見るのも好きだ。
あの電線のずっとずっと先には私の見たことのない風景があり、幾つもの生活や暮らしが存在している。
そんなことを想像するのも、いい。
いつかの日か電線がなくなった空は、私には少しよそよそしく感じられるかもしれない。