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つれづれ雑記*右と左がわからない話*

 私は、ちょっと見、全然大丈夫だよー、という顔をしているが、正直言って結構いろいろ面倒くさい、困ったところがある。
 (え? もうバレてる? それはどうも)

 私の数ある困ったところのひとつに、前にも書いたが、人並み外れた方向音痴がある。

 
 この記事でも触れているが、私には方向感覚がとんでもなく欠如しているのだ。

 そして、これが理由かどうかなのはわからないが、私は子どもの頃から右と左がわからない、という癖(へき?)がある。
 もちろん、全くわからないわけではない。ゆっくり考えればわかるのだ。ただ、パッと突然、「はい、右!」とか「次、左!」とか言われるとパニックになり、恐慌状態になる(なった)。

 いつからこうだったのか、自分ではわからないが、おそらく一番最初から、だと思う。
 逆に聞いてみたい。他の人たちは、右と左をいつから、どのように正しく認識できるようになったのだろう。

 だいたいがボーっとした子どもだった私は、自分が左右が瞬時にわからないことにさえ気づいてなかった。(おいおい)
 とにかく万事がスローモーなので、周囲も、まあそんなもんだろう、と思っていたのかもしれない。
 
 小4になった頃、運動会で学年全体でマスゲーム?のようなことをした。
 両手に太鼓のバチのようなサイズの竹の棒を持ち、音楽に合わせて振り上げたり打ち合わせたりしながら行進しつつ、列を作ったり輪になったりと、さまざまにフォーメーションを変えるというもの。
 曲は、おそらく相馬盆唄だったように思う。『ハァー、今年ゃ、豊年だーよー、あーどうしたどした』ってやつ。(え?知らない?そっかー)
 
 その練習のとき、先生の号令についていくのがとても大変だったのだ。
「はい、右手上げてー、次、左上げて、はい、右向いてー、5歩歩いて、はい、チョンチョン…」
 
 え、右?どっち?あ、こっちか、あれ、もう変わってるし。

 おまけに、両手に持った竹を順に上げたり下げたり打ち合わせたりするだけでなく、隊形を変えるたびに自身も右や左に方向変えたり、移動したりしなくちゃならない。

 うわわ。もう大変。あわあわしている間にどんどん周りから遅れていく。

 これは、ちょっとまずいかな、とさすがに気づく。
 
 右!と言われてもどっち側かすぐにはわからない。他の人を見て真似すればいいのだけども、列を作ってグルグル方向転換するので、だんだんわからなくなってくる。
 人と向かい合っている場合と同じ方向を向いている場合とでは、当然だが右と左が反転する。頻繁に方向転換をするマスゲーム上では、それがクルクル変わるので、私のような空間認知能力(当時はそんな言葉は知らなかったのだけど)が欠如している者には非常にややこしいことになる。

 うーん、困ったな。
  
 要は左右がすぐにわかればいいんだよね。
 と小4の私は考えた。

 で、思いついたのが、食事のときの動作。
 右利きの私は、お茶碗は左手にお箸は右手に持つ。その動作は長年やっているので何も考えなくても無意識で出る。何も考えなくても瞬間的に右手と左手がわかる。
 私は早速、これを実行に移した。
 
 側から見ていると、軽く握った右手を肘を曲げて胸の高さに掲げ、それより少し低く左手のひらを上に向けて何かを受けているような形にしているのが、少し奇妙だったかもしれない。
 でも、これで左右が一瞬でわかるようになった。そして、何度もやっているうちに、お箸を持った形の右手もお茶碗を持った形の左手も、そこまで具体的にでなくちょっとそれっぽく動かすだけでイメージできるようになり、そのうちには動作無しでも頭の中で一連の動きが浮かぶようになった。

 一瞬でも頭の中でイメージする時間が必要なので、どうしても他の人よりも少しだけ遅れてしまうのはどうしようもなかったが、なんとかこれで、少々鈍臭い程度、には動けるようになった。
 
 私の左右の識別、というか、判断方法は、基本的にはおそらく今でも変わらない。これがずっと続いている。
 なので、今ここにいる自分自身の体の左右はわかるが、地図上の自分とかのように、自分から離れて実際の自分とは違う方向を向いている自分(ややこしいけど、わかっていただけるだろうか)や他者の左右はパパッととわからない。
 
 たとえば、ラジコンカーを操縦するとして。その自動車から見た左右の判断ができない。
 なぜならば自動車は私と同じ方向を向いてるとは限らないから。
 そして、自動車がお箸を持つ手とお茶碗を持つ手は、私の手ではないから。(意味わからん)

 武家の世界では、右手は馬の手綱を持つ手ということで、馬手(めて)、左手は弓を持つ手ということで、弓手(ゆんで)というそうだ。

 世と私の生まれが違っていたら、私は右と左を判別するのに、馬に乗って弓を持つ仕草をしなければならなかった、かもしれない。

 ところでこんな記事を書いていると、右と左は、どうしてミギとヒダリというのだろうと、ふと疑問に思った。
 調べてみたら、右は力を入れやすいので握り(ニギリ→ミギ)からきたとか、左は南に向かって(古来、天子は南を向いて座する)日が上がってくる方向、日上がり(ヒアガリ→ヒダリ)からきたとか。
 
 ヒアガリの左は納得できるけど、ニギリからの右は……、ちょっと無理がある気がするけど。どうなんだろう。

#日々のこと #エッセイ
#右と左 #馬手と弓手