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母親になった途端、神隠しにあった自分軸

「自分軸で生きる」という言葉を、
最近目にすることが多くなっていると
思いませんか?

そういう時代の流れがいろんな情報から
わかってきました。
なぜこの自分軸が大事なのか?
考えたことありますか?

私はずっと他人軸で生きてきた訳では
ないけれど、いつからか
自分軸を忘れていました。

長いこと自分の意見というものを
言わなくなっていました。

おそらく母になってからだろうな…
と思い出します。
子供優先で自分を押し殺してしまう
母親がどれだけ世の中には
たくさんいるのだろうか?

そういえば、韓国映画だったかな?
比較的自由のアメリカの映画でも
あったな。
母親が自分というものを出した途端に、
親戚や家族からエラく避難を浴びで
うつ状態になっていくと言った
ストーリー。

「私は○○だと思う」これが
言えなくなっていく。

そう言えなくなる呪文は
「お母さんなんだから…」
これです!

はじめてこの言葉を浴びて、
反発したくなったのは、
帝王切開で子供を産んだあとでした。
手術跡の創が痛み、
3回目に痛み止めをお願いしたとき、

看護師さんに
「お母さんになったんだから、
それくらいの痛み我慢できなくて
どうするの?それくらいで弱音
吐いていたら子供なんか
育てられないわよ!」
でした。

当時は今と違って、痛みは
我慢するものという時代。
そうはいっても、
「お母さんだろうが
なんだろうが、痛いのは私の体だー!」
って叫びたかった。

私は母親のようには絶対になるものか!
と思っていました。
だから、いいお母さんというものが
どういうものなのか?わからない状態で
この言葉キツかった。
泣きながら痛みに耐えた記憶があります。
「お母さんなんだから…」
を呪文のように唱えながら…

独身の頃は「私は○○だと思う」と
言えてた記憶が蘇る。
ちょっと、私は変わった人扱い
されていたから、普通になろうと努力
していた部分もあったが、
それでも、
「そう思いたい人には
思わせて置けばいい」と
開き直る自分が確かにいた。

でも、お母さんになった途端、
「私は…」すらいえなくなった。
私が神隠しにあった瞬間。

考えてみると…
子供を産んで
現実的に母親になった直後に
看護師さんから「お母さんなんだから…」
の呪文を受け取ってしまったこと。

そして自分でその呪文を唱えて
しまったこと。
良い母親になりたかったから。

そして、日常生活での決定が
あまりにも子供優先になっていたこと。
それは周りの目を気にしていたのも
あるし、合理的な部分もある。

例えば、外食でも、家の食事でも、
子供って残すんです。日によって。
若い年齢での結婚だったし、
元旦那さんの金遣いの荒らさから
食費を無駄にできませんでした。

だから、
自分の食べたいものは食べられない毎日。
子供が食べたいものを頼んで、
私は残ったものを食べていました。

外食はご飯を作らなくて済むという
ところではありがたかったけど、
周りに気も使うし、
食べたいものも食べられないから、 
気分が上がるものでは
ありませんでした。

洋服も、今日はこういう気分!って
思っても、
抱っこした時に汚されるの嫌だなって
思うと、汚れてもそれほどショックを
受けない服になる。

ピアスもぶら下げるものは引っかかるから
ダメか…
そのうちぶら下げないものも、
子供がぐずったりして抱っこしている時に暴れると引っ掛けるから
それで危ないな。とか…

親戚に子供を預けて、
息抜きに美容院に行っても、
泣いてないかな?
お昼寝できているかな?
なんて思いながらだから、
全然息抜けず…
むしろ、気疲れする。

だから、家の中で放ったらかしで
子供といた方が人の目を気にしなくて
楽なんじゃないか?
って思って、
どんどん引きこもるようになった。

私は友人の中でもかなり早く結婚し、
子供を産んでいたから、
友達と遊ぶにしても子連れ参加。
話に集中も出来なかったし、 
話についていこうとしても、
なんせ、まだネットも今ほど
普及してないから、

もっぱら、テレビの情報が出た時に
話にのっかると、
「主婦って、日中テレビとか
見れて暇でいいね。」なんて言われたり…
友人との間でも、
社会的な立場が違うことで
どんどん疎外感を味わっていく。

住む世界が違うんだなって
自分にいいきかせていた。

そんなことを四半世紀も繰り返せば、
本当の自分が神隠しに会うのは
当然のことだろう。

そんなこんなで、本来の自分を
ひた隠しにしてきたが、
子供が成人し、働き始め、
母親という役割は
そろそろ卒業してもいいか?
と思えたある時、
隠れていた本当の自分が、
激しく私の中でノックをし始める。

「本当の私はここ!
忘れないで!」って。
でも、いつの間にか本当の自分で
いるより、母親の役割を演じている方が
長くなっていたから、
母親である自分が、本当の自分だと
思い込んでいました。

でも、感情という部分では、
なんだか、大きくズレる。
表立ってはいいこと言っているのですが、
すべては他人を盾に自分の利益のために
動いていたんです。

その正体はエゴでした。
なんの事だ?って感じですよね?

私は離婚しているので片親です。
片親だけど、
経済的援助は受けずに子供2人を
惨めな思いをさせずに育てる!と
決めました。
これは、一見、子供のために決意して
すごいなって受け取れますよね?
表面的にこれだけ聞けば、立派!
って感じですが、

その言葉の奥(深層心理)には、
片親で援助無しで2人の子供を育てて
いくのだから、ちょっとやそっとの
こと、許してよ!という
子供達を盾に責任逃れをしようとする
感情が私にはあったのです。

自分のためにそれを決めたのなら
それでいいんですけど、

きっと、自分のために決めたら、
「子供たちに惨めな想いをさせない」って、言う言葉は出てこないですよね?

私は私の責任で2人を育てるで 
いいと思うんです。

これが「あなたのためを思って…」にも
通ずることなのだろうと思っています。
「あなたのためを思って…」
って言われると、
なんだかイラッとしたり、
モヤッとしたりしませんか?

その言葉の奥には
私は責任を取らないよ、
取りたくないから
やってあげた、言ってあげたになる。
こういう責任逃れのメッセージが
込められているので、
言われた側は、その深層心理の波動を
感じ取って
イラッと、モヤッとするのです。
そしてトラブルに発展する。

「お母さんなんだから…」の呪文に
私がよい母親と見られなきゃいけないと
言う外部からの圧を取り込み、

本心は
「そんなことどうでもいい、
そう思いたい人には
思わせておけばいい」といった気持ちも
あったはずなのに、
その感情は見なかったことにしようと
「お母さんなんだから…」の呪文で
重い重石で蓋をする。

そんなことの繰り返しだったから、
自分の人生を歩んでない。
自分で心の奥ではわかっているんですよ。
やりたくないことやっているって。

だから、責任だって
取りたくないですよね。

「自分のやりたいことだけをやる」
そういうスタンスで
自分軸で生きれば、
自ずと責任も自分で取れるようになる。

そんなことにようやく気づき、
母親を卒業しました。

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