【羽根堕ち】第13話 心配

 念のため周囲を警戒しながらミョーを出る。人々は思い思いの仕事に勤しんでおり、アイラたちを気に留める様子はまったくない。どうやらサロニカは約束を守ってくれたようだ。
『良かった……。これでしばらく心配いらないね!』
 ふるりと尻尾を振って、ザイロが嬉しそうに言う。それに頷いて答えながらも、アイラはちらりと後ろを窺った。いつも手の届きそうな距離にいたジェナが、今は一歩後ろを歩いている。唇が動いているところを見ると、シャンと話しているのだろうか。
(やっぱりショックだったかな……。急に戦うところなんか見せられて)
 ザイロがいる前ではなんとなく訊きづらくて口に出せていないが、今までと様子の違うジェナに思うところがないわけではないのだ。思えば神殿にいた時から、ジェナとの間になんとなく距離があったような気がする。
 沈んでいるようには見えない。足取りこそ少し重いものの表情やしぐさに大した違いは見当たらないのだ。トロンに視線を向けると、無言で首を振られた。
(なんだろう、この違い……。怖くなった、とか?)
 考えて、出した結論に自分で落ち込む。うつむいたアイラにザイロが心配そうに話しかけてきた。
『アイラ、大丈夫?もしかして怪我が痛むの……?』
 その瞬間、ジェナの足音がぴたりと止まった。ぽたっと涙がこぼれて地面に黒く染みをつくる。固く握られた拳が震えている。声をかけようと半歩踏み出した瞬間、アイラの背筋をぞわりと冷たいものが駆け抜けた。
「ジェナ……?」
 恐る恐る名前を呼ぶと、ジェナはゆるゆるとアイラを見上げた。その目からはまだポロポロと涙のしずくが落ちている。
「ごめんね……。アイラの怪我、僕のせいだ……」
「!!」
 悲痛な声で告げられたその言葉に、アイラは大きく息を飲んだ。ジェナは拳で乱暴に涙をぬぐいながら続ける。
「僕、戦えないから……きっとアイラの邪魔になる……」
 ひっく、としゃくりあげる声が漏れる。無防備に曝されたジェナの右手の甲――そこに浮かんだ十面ダイスの模様が、気のせいか少し濃くなったように見える。周囲の気温がすっと下がった。
 何か言わなければ。アイラは必死に言葉を探す。気の利いたことでなくてもいい、何かジェナが落ち着いてくれるような言葉を――。
「……っ私のほうこそ、ごめん!」
 焦りがつのる中、飛び出したのは謝罪の言葉だった。ジェナの口がぽかんと開き、え、と虚をつかれたような声が落ちる。ひとつ頷いて思考を整理すると、アイラはゆっくりと話し始めた。
「サロニカさんに怒ったことは後悔してない。でも、ちょっと考えなしだったと思ってる」
 考えたくはないが、あそこで負けて命を落とす可能性だってあった。そうなれば悲しむ友達がいる。ジェナにだって余計な傷を負わせてしまう。現にザイロには泣かれてしまったし、ジェナもこうして自分を責めて泣いている。それは……百パーセントとは言わないけれど、感情的にサロニカに挑んだアイラにだって責任があるはずなのだ。
「だから、ごめん。急に戦うとこ見せられる気持ちも考えなきゃいけなかったね」
「……、ん」
 アイラの言葉に、ジェナは小さく頷いた。頬を濡らす涙を手早くぬぐい去り、左手できゅっと右手を握りしめる。手の甲の模様は左手に覆われて見えなくなった。
 温かい風が吹く。背中に冷たい汗がにじんでいるのに気づいてアイラは苦笑いを浮かべた。どうやら今のジェナとのやり取りに思いの外緊張していたらしい。
「――あのね、」
 不意に、思いきったようにジェナが声をあげた。焦げ茶の瞳がためらうように揺れた後、まっすぐアイラを見上げてくる。
「もし、どうしようもないことがあったら……その時は、絶対に、迷わず逃げてね」
 ――僕を、置いてでも。
 小さく付け加えられた言葉が耳に届き、アイラは思わず息を飲んだ。ジェナの目は揺らがずにアイラを見ているけれど、その奥には不安が見え隠れしている。ジェナが求める言葉はわかっていたけれど、アイラは拳を握るとゆっくり口を開いた。
「約束は、できない」
「――!」
 ジェナの目が大きく見開かれる。唇が小さく震えた。目を逸らしたくなるのをこらえて、アイラは続きを口にする。
「私はジェナが大事で、諦めたくないって思うから」
 どうしようもないように見えても、最後まで諦めたくない。ジェナのことを「仕方なかった」なんて切り捨ててしまいたくない。いつか悪い夢が終わったその日に、そこにジェナもいてほしい。
「……なんにも、知らないからだよ」
 ぽつり、ジェナが言葉を落とす。その声は弱々しく、迷子の子供のように揺れていた。ザイロが心配そうにジェナを見上げる。
『ね、ジェナ。アイラといるのは、怖い?』
 直球。ザイロからの問いかけに、ジェナの肩がぴくりと震えた。ややあってふるりと頭が揺れる。
「アイラは、怖くない。……ザイロもトロンも、もう怖くない。一緒にいたい……!」
『じゃあ一緒にいようよ。ね?』
 強引で、単純で、人によっては怒り出しそうな。そんなことを、ザイロは平然と言ってのけた。ジェナはぽかんと口を開けてまばたきも忘れたようにザイロを見ている。アイラも言葉を失ってまじまじとザイロを見つめた。トロンだけは話が飲み込めたのか、興味を失ったようにどこか遠くを見ている。アイラとジェナを等分に見て、ザイロは機嫌よく続けた。
『わかんないことまで心配するより、今はしたいことしようよ。……もし本当にどうしようもなくなっちゃったら、アイラはボクたちが守るからさ』
「! …………うん」
 長い沈黙のあと、ジェナは大きくこっくりと頷いた。それからぎこちなく頬をゆるめ、笑みを浮かべる。表情こそまだ少し固いものの、その足取りは確実に軽くなっていた。
 小さな少年の背に重くのしかかる不安。その正体をアイラが知るのは、もう少し先のことだった。


サポートいただけると嬉しいです。いただいたサポートは小説の資料集めに使います。