【羽根堕ち】第16話 メナード

『それじゃ、俺は主にこの事を報告してくるよ』
 トフはそう言うとひらりと手を振って姿を消した。倒れていた下草は何事もなかったかのように起き上がり、風にゆらゆら揺れている。
「……なんだったの、あの人」
 ジェナがぎゅっと眉をしかめて呟いた。アイラは苦笑いを浮かべてトフが消えた空を見上げる。
「すっごく自由な人だったね……。緋色の居場所、教えてくれたけど」
 どういった偶然か、それはアイラたちのひとまずの目的地と同じメナードだった。知らずに村に立ち入っていたらどうなっていたか、想像するだけで背筋が寒くなる。そう思ったのとほぼ同時に、ザイロがふるりと体を震わせた。
『ほんと、良かったよね……。次は大きな戦いになりそうだし、ゆっくり休んでから行こう?』
 こくり。アイラたちは誰からともなく頷き合い、ゆっくりその場を後にした。世界樹の光が見えない位置まで離れると、大きな葉の陰に身を寄せ合う。ぬくもりと葉擦れの音に、少しずつ瞼が重くなってくる。小さなあくびをひとつ漏らすと、アイラは深い眠りに落ちていった。

 小鳥がさえずる朝。目を開けると、ジェナはザイロの隣ですやすや寝息をたてている。アイラはゆっくり体を起こすとポケットからオルフェのクリスタルを取り出した。
「…………」
 美しい茄子紺も柔らかい緑の光も変わっていない。けれど……サロニカとの戦いで、クリスタルには大きなひびが入ってしまっていた。その様子に傷ついたオルフェの姿を思い出し、アイラはぎゅっとクリスタルを抱き締める。
(これが割れちゃったら、どうしたらいいんだろう……)
 脳裏に粉々に砕けたアンジューのクリスタルが思い浮かぶ。その時の、サロニカの呆然とした顔も。クリスタルが砕けたら自分もあんな風に衝撃を受けるのだろうか。唇をきつく噛み締めて記憶をたどるけれど、サロニカもイサドラもその後クリスタルをどうするかについては何も言っていなかった。
「……あ、そうか」
 少し考えてその理由に思いいたり、アイラは思わず小さく声をあげた。
(アンジューは光神……。光神の部族だと、クリスタルは三年に一度主神からもらえるんだっけ)
 ヴァイでも大巫女たちがマナからクリスタルを受け取る儀式があった。それと同じように、時が経てばサロニカは新しいクリスタルを受け取るのだろう。そして、何事もなかったかのように代行者として村を守り続けるのだろう。恐らく、世界樹が破壊されるその瞬間まで。あるいはその後も。
『……んぅ?』
 不意に、ザイロが寝ぼけたような声をあげた。アイラは慌ててクリスタルをポケットにしまう。どきどきと跳ねる心臓の音を数えながら様子を窺っていると、ザイロは数回まばたきしてゆっくり起き上がった。
『おはよ……アイラ、もう起きてたの?』
「うん。おはよう」
 体を伸ばして眠気を振り払うザイロにアイラは微笑んで答える。どうやらクリスタルの事には気づかれていないらしい。密かに胸を撫で下ろしていると、ジェナが大きく身じろぎして体を起こした。
 全員が目を覚ましたところで簡単に身支度を整え、見張りをしていたトロンにお礼を言って出発する。ザイロの先導でするすると木々の間を歩くうち、どこをどう歩いたのかもわからないまま気がつくとアイラたちは道に出ていた。
「すご……」
 ジェナが思わずといったように呟く。アイラは頷くと手を伸ばしてザイロのふわふわした毛並みを撫でた。
「ザイロ、ありがとう。これで先に進めるね」
『うん!』
 嬉しそうなザイロの様子に胸の奥がほこほこと温かくなる。ふと目を向けるとジェナも柔らかい表情でザイロを見ていた。視線を感じたのかちらりと目を上げ、アイラを見るとにこっと笑う。一拍遅れてそれに笑い返すと、アイラはそれまでと同じように山脈を左に見て歩き出した。すぐトロンが隣にやってくる。
『――――?』
 ごく控えめに、茄子紺が念送された。思わず体に力が入る。足元で砂がザリッと音をたてる。
(気づいてるの……?)
 このタイミングでの、オルフェの色。トロンはきっとクリスタルの状態に気づいている。……そもそも、サロニカと戦ったあの場で一番冷静だったのはトロンだ。気づかない方がおかしいのかもしれない。
 ポケットに手を入れ、指先でそっとクリスタルを撫でる。ざらりとひびの感触が引っ掛かる。小さく頷いたアイラに、トロンはシェルターのようなものを念送してきた。次の戦いは無理をせず後ろに下がっていろという意味だろうか。
(……でも、私にできることがあるのなら)
 トロンの意図はわからない。ただ、それが優しさであるということだけは痛いほど伝わってきた。それでも、守られて見ているだけではいられない。
「自分でやるよ。……だって、私が決めたことだもん」
 噛み締めるように呟くアイラを見て、トロンは困ったように眦を下げた。そんな顔をされると胸が痛むけれど、考えを変えるつもりはない。数秒の沈黙の後、トロンはゆっくり頷くと薄桃色の小さな花を念送してきた。四枚の丸い花びらの中に黄色いおしべがちょこんと座っている。父が好きだった花、ヒルザキツキミソウだ。
「……ありがとう」
 ゆらゆらと揺れる花を瞼の裏に宿し、アイラは柔らかく微笑んだ。ポケットからふわりと緑色の光が漏れる。
「アイラ、絶好調だね!」
 光を見たジェナの弾んだ声が飛ぶ。アイラは振り返り、ぐっと親指をたてた。いつの間にか道は登り坂になり、距離にすればそれほど離れていないジェナがかなり遠くに見える。
(……私は、諦めないから)
 ミョーを出た時の会話を思い出し、アイラはジェナに見えないほうの手をぎゅっと握りしめる。その手で必ずジェナの手を取ると、固く心に誓って。

 そのまま歩き続けること数十分。急な坂を登り詰めたところにその集落はあった。
 メナード。赤の聖徒・緋色を擁する、第一の結界の要。
 本当の戦いが始まる。


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