《掌編》きっとみんな、「死にたい」「死にたくない」を繰り返している

 文句と愚痴。家族の声が五月蝿い。
 我儘な音で、心が壊れそうになる頃――土曜の夕方は散歩に出る。

 6月。歩道の端のあちこちに、黄色い野生の菊芋の花が咲いている。いつもゆっくりと時間をかけて、自動販売機に向かう。

 その日。アスファルトに、「死にたい」と白いチョークで書かれていたのを見つけた。それは不思議と切実だった。何故か心に触れた。 

 しゃがんで、そこに転がっているチョークを拾い上げ、「わたしも」と書いた。何か、切実さがリンクしたのか、それが元気をくれて、自動販売機までリズムよく歩いた。

 好きなミルクテイーを買って一口飲むと、落ち着いた。家族のたてる騒音が頭から遠のいて行くのを感じながら、空を見た。灰色の雲と薄くピンク色に染まった雲が、仲良く流れていく。


 その晩、ベッドの中で、「死にたい」と書いた人を想像しようとしたけれど浮かばない。浮かばないのに、奇妙なほどリアルな存在として感じた。きっと、私と同じような人なのではないかという確信に近い、ひらめきがあった。

 翌日の日曜日。お昼すぎに足早に家を出た。あの場所へ向かう。

 昨日書いた「わたしも」の下。「死にたくない」が新たに書いてあった。また、しゃがんで、小さな転がっているチョークを拾って、「わたしも」と書いた。途端に、何故だか、空気が私を包んだ。独りぼっちじゃないよって。

 立ち上がり、見上げた空は、青。
 悪気がない青。
 どこまでも無責任な青だった。


 学校が始まる月曜日。帰宅したのは夜7時。あのアスファルトのメッセージを見たかったけれど、無理だった。

 そして真夜中。

 激しい雨の音で目が覚めて、ぼんやりと、あれが全て消えてしまっていると焦ったのに、『でも、大丈夫。私と同じように、「死にたい」と「死にたくない」を繰り返している人と繋がれたから』と、無意識に近いところから言葉が脳内で紡がれた。

 朝。少し早目に家を出て、あの場所を確認してみた。やっぱり、白い跡はあるものの、メッセージは流れてしまっていた。

 それだけ。高校生の頃のたったそれだけの出来事。でも、10年以上経った今も思い出す。その度に、脳内でやっぱり言葉が紡がれる。

 『きっと、ひとりじゃないから。私のような人は、ひとりじゃない。きっと、本当はみんな一緒だ』

 そして、そんな綺麗事をリアルに感じる。だから、生きている。

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