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無常感-無常観

春、桜の季節

桜が綺麗な季節になりました。
つい先日まで冬物のコートを羽織っていたのが嘘のように暖かい陽気が続き、あっという間に満開の桜が東京中を彩っています。

生まれてから18年間東京で暮らしている私にとって桜は、春の象徴。きっと北海道以外の地域に住む多くの方にとってそうだと思います。

そんな桜の下を歩きながらの独り言。

春、別れの季節

実は、桜をあまり好きにはなれないんです。
桜が咲くのは1年のうちたったの2週間。たったの2週間で人々の心を動かし、何事もなかったかの様に散っていく桜は、別れの季節の象徴のような気がしてならないからです。

私の名前の由来になった唄を読んだ在原業平が、桜に関して詠った有名な短歌があります。

『世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし』
(出典:「古今和歌集」他)

この唄から、自分に当てはめて考えた私なりの解釈はこうです。
(実際の解釈とは一部異なります)

「2週間だけ花を咲かせて儚くも散っていく桜は、人々の別れの寂しさや悲しさを助長させるものである。もしこの世に桜がなければ、春の季節の人々の心はもっと穏やかであっただろう。」

桜が感じさせる無常感(※1)は、私に無常観(※2)を再認識させ、春の季節の私の心を静かに騒つかせるのです。

※本文では、2つの単語を以下のように定義し区別します。
(※1)無常感:ある物事を見て感じる儚さや虚しさ。
(※2)無常観:物事は移り変わるものだという定義そのもの。

一方で、「春は別れの季節でもあるが、出会いの季節でもある」というポジティブな考え方があります。
しかし、出会いとは別れの始まり。
捻くれた考え方をする私は、出会いの季節=別れの始まりの季節と感じ取ってしまいます。つまり、私にとって春という季節そのものが別れの象徴なのです。

無常感-無常観

古文大苦手だった私ですが唯一記憶に残り共感したのが、
桜から無常観を見出し、侘び寂びを美しいと感じる仏教の心です。

万物流転の思想など、無常観に類する考え方は世界中にあります。
その中で、無常観の寂しさを美しいと感じる思想はこの季節の唯一の救いのような気がしています。

全てのものは移り変わる。
私が感じる無常感は、人に関するものが多いです。特に人との別れに関すること。
思えば、記憶に強く残っているお別れも、桜が散り始めた時期でした。

当たり前のように隣にいる人を大切に、残りの春も過ごしていこうと思います。


桜の下で書いた、ながいながい独り言でした。

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