見出し画像

「美意識」というもの

私は、自分に美意識があるかどうかは知らない。

けれども、美しいものは好きだ。

だから、私には、私なりの美意識がある。という前提で、美意識を語る。

私の家の壁に、カレンダーが掛かっている。
美しい糸で織り上げられたカレンダー。
2020年の一年が、そこにある。

私は、普段、そのカレンダーを見ない。
というか、存在そのものを忘れている。

もともと、自分が求めて手に入れたものではない。
人からの、貰い物で、だから、もらったカレンダーを捨てることが出来ず、壁に掛けている。

たまに、通りかかりに、私は、そのカレンダーに気がつく。

そして、かなしく思う。
2020年のカレンダー。
2021年が来たら、もうカレンダーとして、壁に掛けておくことが出来なくなる。

私は、そのカレンダーが、別に望んで手に入れたわけではなく、けれども、私の家の壁に、今、ここにこうしてあるカレンダーが、好きなのだと、しみじみ思う。

できることなら、2021年が来ても、壁に掛けて、たまに眺めていたいと思う。

けれども、2021年になって、2020年のカレンダーがあれば、それは混乱のもとになる。

カレンダーは、カレンダーなのだから。
暦を知らせる役割を果たす、それが、カレンダーなのだから。

私は、心底残念でならない。

たいへん美しいカレンダーであった。
工芸品であった。
市場価格は知らない。
誰かに譲りたくても、2020年が過ぎ去ってしまえば、もう、使えない。

どんな糸を使い、どんな風に織り上げられたのか。
せめて、この絵の部分だけでも、残して、壁に掛けておければ、どんなにか心が安らぐだろう。

毎年毎年、カレンダーは売り出される。
私は、毎年毎年カレンダーを買う。

スケジュールを書き込むために。
紙のカレンダーを買う。

紙のカレンダーとは、お別れができる。

何故なら、私は、毎日、紙の新聞と、お別れしているから。

私は、貰い物のカレンダーを見て、しみじみ泣きたい気持ちになる。

こんなに美しいものを、一年で捨てていくのか、人間というものは。

そこまでしないと、生きてゆくことができないほど、経営が切羽つまっているのか、この会社は。

新作を、つねに出し続け、つねに売り上げを伸ばし続けて、そこまでしないと、生きてゆくことができないほど、人間は生活に、困窮しているのか。

私は、しみじみと泣く。
そして、思うのだ。

こんなに美しいものを、簡単に、捨てては、だめだろう、と。

それが、私の美意識だ。

他の人には、他の人の美意識があると思うので、私の美意識に合わせて下さいとは言わない。

私は、ただ、泣く。
美しいカレンダーを見ては泣く。

「エリート」の意味を私は知らない。
「美意識」の意味を私は知らない。

望まれもせず、必要とされず、存在を忘れられ、2020年が終われば役立たずとなる、それでも美しいカレンダー。

その存在を愛して、その後の運命を案じ、けれども、今、ここにあるカレンダー。

嗚呼、カレンダーが美しい。

チャリーン♪ しあわせに、なーあれ(о´∀`о)