言語はいかに有力か?(3)──概念を分ける乙女座の限界

前の記事では、ここでの乙女座の秩序がどのようなものかを話した。区分けする仕組みが乙女座だと。では、その秩序に対応する言語と結びつけていこう。


3.1. 概念を区分けする

さきほど、手話が成立するのはなぜかという話をした。指し示されるものとの対応関係を保っているからだと。

言語の獲得にあたり、このような概念との対応づけは、分節化と呼ばれる。連続的なものからカテゴリーを切り出して、認識の単位として分けるのだ(音声獲得でも同じ言葉が使われるようだが、今回は言語哲学の意味で使う)。

片付けをする、ということは、英語でorganizeという。オーガナイザーって商品が日本にもあるよね(実はここから、双子座の水星と乙女座の水星の違いも導出できる)。

オーガナイザーと言ってもいろいろなものがある。卓上で使うのか、文房具に使うのか、書類がしまえればそれでいいのか。
言語もこれと似ている。いかに整理するかというのは、視点によって違う。図書館の本棚なら、国際コードに従うだろうし、個人の本棚なら単に高さ順に並べるかもしれない。そこに必然性はない──つまり恣意的なのだ(乙女座は柔軟宮なのにも注意)。

もちろん、言語はコミュニケーションのためのものだから、そこでの共通性はある程度出てくるのだが、例えば虹が何色かは文化によって違うということを思い出してほしい。
ともあれ、きちんと区分けされた言語は、きちんと区分けされた概念を指し示すのである。

3.2. 概念の連続性

では次。全てがきちんとした区分けだろうか。例えば、椅子と机は完全に区別できるだろうか。

双方とも板に四本の脚がついているが、一見しただけでは形で区別がつかず、高さのみで区別することもあるだろう。これは認知する主体にとっても異なる可能性がある。すなわち、大人にとっての椅子は、子供にとって机かもしれない。
椅子というものに着目するなら、私たちは適度な大きさの切り株に座ることがある。そのときそれは椅子ではないが、椅子として扱われている。

私たちは概念の上では椅子と机を区別するが、このような例ではこの言葉は「私たちが今それを何として扱っているか」にかんするいわば宣言であり、便宜上の線引きにすぎない。そう、概念にはそのコンテクストによって揺らぎがあるのである(もちろんそれでもその線引きには、コミュニケーションという状況に限れば、十分に意味がある。「その」机と「その他の」机を区分することはその机に干渉することに役立つ)。

3.3. 「差異があること」と「差異があると認知されること」

こう考えると、乙女座の対処というのは、「区分けすること」「線を引くこと」がその本質なのだ。それがあって初めて、私たちは差異を認識できる──というのが過言であるにしても、雑然と何かが並んでいる状態では見「分ける」ことは困難だ(cf. 間違い探し)。

言い換えれば、「差異がある」状態と「差異が明文化された」状態は違うのだ。その状態があってこそ本当に差異が生まれ、異なる言葉で指し示されることになる。そうして、その差異は他の人にも見えるような(指し示される基準が言語のように共有されていれば)、「本当に違う」ことになるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?