射手座と水瓶座は似ているか(3)──水瓶座と科学

前回は射手座は哲学的だ、という話を旅になぞらえて話した。じゃあ一方の水瓶座はどうだろうか?

1.水瓶座の思考──基準が必要

水瓶座は一般的にはコンピュータサイエンスのイメージとして知られていて、哲学に関することはあまり出てこない。圧倒的に射手座。というか水瓶座ってロボットとかロケットとか出てくるよね。

この違いは、機械を使っているかどうかとして取り急ぎまとめても良いと思う。じゃあ機械を使用した考えと使用していない考えの違いはなんだろう?

それは、基準があること。私は前回の記事で、布石になる一文を置いていた。「確かに、頭一つあれば考える事自体はできる。一方で科学は普遍的な基準を必要とするので、その普遍的な基準を担保するものがなければ推し進めることができない」……ってね。

ここで「普遍的な基準」として具体的に念頭に置いていたのは測定器具だったんだけれど、それは機械でも同じだなと気づいた。ロボットはここで動いたけどあそこでは動かなかった、じゃ意味がない。ロケットだって宇宙での人間の活動を保証する。普遍的なもの、いつでもどこでも機能するということ自体は同じ。これは水瓶座が個人を起点にしていないことにも通ずる。いつでもどこでも使えるなら、きっと誰でも使える(ようになる)。それはいいことなのだ!

2.哲学に基準はあるか?

哲学に関係してって言っちゃったから、哲学と基準について多少は言及しておく。

哲学は収斂を目標としないので(前回参照)、いつでもどこでも機能しそうにはない。むしろ前回の記述に基づけば、哲学の本質には逆行しそうだということになる。水瓶には一つの答え、一つの答えを導く式、価値基準が必要だ。なぜなら普遍的な一致をめざすサインだから。

これがコンピュータをはじめとする各種システムと結び付けられる所以だと思う。例えるならデバイスとか望遠鏡が手元にある感じ。度量衡とかシステムが統一されていれば、世界中の人が同じものを見ることができる。

その点で、やはり水瓶座は哲学よりはいわゆる科学に近い。式にパラメータを入れたら、常に一定の規則に従ってぽんと答えが出てくる。風の不動宮だしね。考え方が変わらない。もちろん哲学にも考え方はあるけど、それはむしろ論理に対するこだわりで、「誰でもこういう風に考えたら同じように答えが出てくる」ことを望む。そうじゃないと議論の正しさは証明できないからだ。哲学には拠り所がない。

もう少し哲学につなげるなら、ユニバーサルに通じるものがときどき哲学的問題を引き起こすとか、そういうことはありうるかもしれない。数学が哲学的問題になるみたいな感じで。

3.「前進」しているところだけを取り出すと、似ている

ではここでもう一度、前回の射手の話に基づいて比較をしてみよう。以下は考察も入ってくる。この前の「人間が人間である限り哲学に関わる」という話を思い出してほしい。人間が人間である限り哲学に関わる、わかった。確かにそういう側面はあるだろう。確かに動物の状態を脱した人間が考えることと無縁であるとはいえそうにない。

しかしこれまでの話をもとにすると、哲学が前提としている完全な(普遍的な)人間像は水瓶にとっては前提ではなくて、むしろ目標なのではないか? そもそも人間が人間である限りっていうけど、人間ってそんなに一枚岩なのだろうか? 動物の状態を脱したら、彼または彼女は即人間になるのだろうか(ヤスパースはそう言いたそうだけどそれって本当だろうか)? 人間に求められる水準とは何だろうか? 子供の哲学的な質問と大人の哲学的な質問は変わらないのだろうか、変わるとすれば何が違うのだろうか?

今のところ、完全な人間はいそうにないし、そもそも完全な人間とは何かをめぐってバトルはありうるから、そこに向かっている状態だけを見ると、たしかに第三者から見て射手座と水瓶座は似ているといえるだろう。

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