なぜ火エレメントが最初なのか(2)ーー牡羊座と人格

1では人格に基づいて牡羊座の考察をすると述べたが、人格の何に着目するのか?自己意識である。「我思う故に我あり」という言葉は牡羊座の標語となっているし、ここから話を始めるのはぴったりだろう。


2.1. 人間と道徳、牡羊座


自己意識(とか自己)についてはまあいろいろ論者がいて、引用できそうなものはたくさんあるが(もっと適切な人もいるかもしれないし)、自己意識と人格について、とりわけライプニッツが述べていることは核心を突いているように思われるので、以下に引用する。

理性的霊魂は、自分が何であるかの意識を持ち、意味深い「私ICH」という言葉を言うことができる。それは、形而上学的意味において他の霊魂よりもはるかに長い持続と存続を持つだけでなく、道徳的意味においても同一であり続けて、同一の人格を成す。というのは、理性的霊魂に刑罰と報酬を可能にするのは、記憶あるいはこの私についての知だからである。(Leibniz 1958: 87=205)

要するに、私たちが何か誉められるようなことをしたり、間違っているようなことをするためには、私たちが自分が何をしたかを覚えていなくてはならないということだ。人格とは、もう少し詳しく考えてみると、記憶だったり私についての知を含んだ概念なのである。
しかしここで私が着目したい点は別にある。それは、刑罰と報酬が可能になるためには、有形であれ無形であれ、公的なものであれ私的なものであれ、評価体系が存在していなくてはならないということだ。刑罰あるいは報酬は、評判や財産といった自分の持ち物(牡牛座の管轄)の増減のことであるから、当該評価基準は刑罰に先立って存在していなくてはならないのだ。さらには、この刑罰や報酬といったものは、字面から法的なことを想像しがちであるが、思い出してほしい、権利には法的なものと、道徳的なものがあるということを。
すなわちここでいう評価基準とは、道徳的なものの方であると私は考えたい。善悪の基準は評価(持ち物の増減)に先立って存在する。法的な善悪の基準の方は他者との折衝を含むものであるから、天秤座の領域にあると考えることができるが、ではもう一つの道徳的な善悪の基準が誰が司っているのかと考えると、ふさわしいサインは一つしかない。牡羊座である。

2.2. 善悪と人格、二つの交差点

もう少し善悪の基準と人格の特殊性について補足しておく必要があるだろう。
善悪と人格の関係性は、主に意思決定能力に関連づけて考えることができる。一つ目は選択の理由、二つ目は選択するという行為そのものにある。
選択の理由について、私たちは単に呼吸をし食事をしているだけでなく、物事を考え、行為している。行為に先立つのは私たちが内側に有している理由ーー言い換えれば信念である。この信念というのは、以下の引用にある、「自ら選択した価値や規範」に見てとることもできる。

人格の優れた特徴が、単に生きているだけでなく、あらかじめ与えられた、もしくは自ら選択した価値や規範に照らしながらこの生を形作ろうと努力する点にあるのだとすれば、人格が特定の属性や能力を有していなければならないことは言うまでもない。(Quante 2013:16)

『人格ーー応用倫理学の基礎概念』

また、第二に選択することそのものと牡羊座の関連を考えることもできる。
言うまでもなく私たちの人生は選択の連続である。私たちはありうる可能性の束から物事を切り取り掬い上げて、あれこれと検討した後、ある方向に物事を動かそうと努める。
ある決断をするということは言い換えれば他の選択肢や可能性を全て捨てるということでもある。そうして初めて物事は生起し、結果を得ることができるのだ。
今日の昼ごはんを何にするか決めようとするとき、私たちの目の前にはある程度の可能性の海が広がっているだろう(魚)。しかし私たちがAを食べると決定するときには、A以外のものを食べる可能性は捨て去られている(牡羊)。次に、私たちはAを食べたという結果を、満腹感なり脂肪なりで甘受するわけである(牡牛)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?