なぜ火エレメントが最初なのか(3)━━獅子座と射手座の場合

さて、2では牡羊座とmindの関連性について詳述したが、では他の火星座はどうだろう。人間精神とどのような関係があるのだろうか。


3.1. 獅子座の場合ーー発現するイデア

派手、目立つことが好き、自己表現が得意、まるで舞台上の俳優のような獅子座。支配星は太陽であることから、人間の主体そのものと深い関わりがありそうな正座である。

舞台上の俳優と人間の主体、なんだかわかりそうでわからないが、これは人生がステージだと考えるとしっくりくる。私たちは日常生活においても、自分自身の好きに振る舞うことはない。他の人から期待されること、期待されていなくても自分が適切だと信じることによって、自分を捻じ曲げながら生活する。「自分の思うがままに」なんて言うが、現実世界はそれからは遠い。
でも、それが悪いわけではない。ゴフマンの『日常生活における自己呈示』では、こんな一節が出てくる。

私たちは、公表した原則、誓った言葉の下にある、気分と行いのあらゆる種類のばらつきを、……包み隠さなくてはならない。なぜなら私たちが選んだ役柄は、好むと好まざるとにかかわらず訪れる夢想の流れより、ずっと本物の自分自身だからだ。……自分についての認識は、あらゆる芸術や科学がそうであるのと同じように、その主題となるものを新たな媒体、すなわちイデアの媒体によって表現する。(Goffman 1961=2023: 96-97)

『日常生活における自己呈示』

これがまさに、獅子座的な自分の表現であろう。子供のようなどと評される獅子座であるが、別に何も考えていないわけではない。努力だってするし、案外気弱だ。一見上の文章は「ばらつきを……包み隠さなくてはならない」から天秤的だと思われるかもしれないが、そうでもないと思う。
ここで着目して欲しいのは、「イデア」という言葉である。イデアとは、事物の本質や価値判断の基準を指すギリシャ語である。一方で天秤座における価値基準とは調和を主としたものであり、自分自身に忠実であるだとか、自分自身の本質といった性質を含まないと思われる(天秤座の支配星は金星であり、太陽はフォールとなる)。
つまりここで自分自身だと表現されているのは、その抑制された振る舞いではなく、当該の振る舞いの奥にあるイデアなのだ。いかに抑制的であろうと、他の人の期待によって曲げられていようと、表現の方法(抑制)と、表現されたところのもの(=イデア)は別物なのである。
もし同一のイデアが違う場所でも同様に成立するならば、場所Aにおける私と、場所Bにおける私は確かに行動パターンが違ったとしても、同じイデアたる自分自身の違った表現だということになる。顕れんとするイデアがあるから表現がある。そして、その逆ではない。

3.2. 射手座の場合ーー飛んでいけ!どこまでも!

イデア(獅子)や可能性(牡羊)といったものをこれまで火にまつわるキーワードとして挙げてきた。では、射手座はなんだろうか?
射手座はケンタウロスを模った星座だが、一方その性質はというと、しばしば飛んでいく矢に例えられる。それは射手座が興味を持ったことに突き進むからだ。興味というキーワードは対向星座である双子座も共有するものだが、双子座は近くにある興味深いものを巡ってうろうろするのに対して、射手座は遠くにある興味のあるものに突き進む。その遠さは時間的なものでも空間的なものでもありうる。
じゃ、興味があるものにたどり着くのが目的なのだろうか?そうは思われない。私は以前、射手座は遠くを目指し続けるという意味があると思われるというふうに書いた。射手座は特に終着点を意識してはいない、という意見は今も変わっていない。
「ただ飛んでいることが大事」とはいっても、生きている人間である以上は目的が設定されているはずだと思うかもしれないが、サインたる射手の「目的の根拠が、感動とか熱狂とかあるいは正義感、倫理感など、けっこうふわふわしている」(石井ゆかり)。山羊座くらい現実的な目標を持っているわけじゃないのだ。とすると、この「目的の根拠」がまさに射手特有の部分と言えそうだとわかる。

3.3.サインとしての火は、「まだ顕れていないもの」の象徴

牡羊座も獅子座も射手座も、まだ顕れていないものを象徴しているということである。ここで挙げている射手座にしても、移動(と、移動させしめた理由)そのものはプロセスであり、その記録を残して初めて誰でもわかるようになる。顕れたあとは、五感で知覚可能になることで、地星座の象意に入ってくると考えられる。
そうすると火星座が象徴しているのは、まだ現実としては現れていない(もしくは現れんとしている)可能性の束、イデア、素朴な正義感や倫理観……見えないものが見えるように顕現しようとしているプロセスだということになろう。それらは、私たちに行動を起こさせしめる理由、気高きヒトとしての「精神」なのである。


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