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【2020.9.17 ハライチのターンより】「ひとり暮らし」

カラカラカラ。
建付けの悪い窓ガラスを少し浮かせ、滑らすように2枚重ねる。結露でじっとりとした窓。そのサッシに、両手で触れた分の水滴がつーっと2本落ちた。
サンダルは日に焼けて、出不精の自分を蔑んで見つめる。しかし、抵抗は無駄だとばかりに、一思いにソイツを踏みつける。


「さみぃ」


ベランダからちっぽけな街を見下ろす。そして、すっかり縒れてしまったスウェットの胸ポケットから水色の小箱を取り出す。コロコロコロと中身が偏る音からするに、明日、いや今日辺り無くなるのだろう。この寒さの中、徒歩6分の最寄りのコンビニへ行かなければならない。めんどくせぇ……。煙草の先端に火を灯す。ぼうっと静かに燃え盛るライターの火では、暖を取ることすらちっとも出来やしない。


「もーちゃん、白い線はみ出たらダメじゃん!」
「だってしょうがないもん!」
「ぜってーもう一緒に帰ってやんねーから」


はいはい、その子のこと好きなんだろ?告白しねぇと後悔するぜ。
白線渡りに熱中する小学生の下校の群れを後目に、スパーと音を漏らしながら、大して上手く答える訳もない恋愛相談に勝手に返事をするのだ。吹かした煙はため息と共に白く深く混ざり合って虚無へと消えた。


もうすぐ春が来る。


_____


「あちぃ」


東京は猛暑。夕暮れ時になっても、コンクリートジャングルは熱を発し続ける。首のたるんだTシャツから、滝のような汗が滲む。だらしない猫背へと「まいど!」と肉屋のおばちゃんの声。毎日毎日、お疲れ様です。右手にはバイト帰りの至福がぶら下がっている。あの肉屋では自分のことを、いつもコロッケを1つだけ買うケチな奴だと、噂していないだろうか。……まあ、そんなことある訳もないか。


最寄り駅、1番出口の真隣の商店街を抜けると、閑静な住宅街に入る。そして、3番目の角を左へ曲がると、お気に入りの公園がある。春には綺麗な桜が見られる公園だ。それももう散ってしまって、つまらない葉っぱが茂るそこらの木と同じになった。2つ並んだブランコの片方に溶けるようにもたれる。水色の小箱をハーフパンツの右ポケットから取り出すと、普段より少々重みのないことに気が付く。


「ライター忘れた……」


キーンコーンカーンコーン、丁度近くの小学校の下校のチャイムが街に鳴り響く。そのうちこの公園は、瞬く間に小学生の群れに占拠される。カラスと一緒に帰りましょう。カエルが鳴くから帰ろう。フリーターのしょうもないお兄ちゃんも、おうちに帰るとするよ。


マンションの入り口では大家さんがせっせと箒で掃除をしている。見事に綺麗に咲かせた紫陽花も、散ってしまえばただのゴミに過ぎないのだ。例えその花が誰かからのプレゼントだったとて、毎年ゴミ袋を占領する大量の花弁はプレゼントの副産物なのだ。迷惑に過ぎない。敷地の隅に横たわるゴミの山は、どんどん大きくなってゆく。「ちわーっ」と会釈だけを残し、階段へ足を踏み込む。


まだ大家さんの半分も生きていないであろう自分ですら古いと感じるこのマンションに、エレベーターなど洒落た物は無い。だからこそ、格安で東京に身を置けるのだ。有り難い話だ。1歩1歩踏み出すごとに、サンダルへ汗がじとっと染み込む。しっかり前見ねぇと転ぶぞ。自分への戒めだ。


4階の右から2番目、鉄製の重怠い茶色の扉を開ける。その途端に、室内のむんっと圧縮された熱風が、涼を求めて飛び出してくる。逃げ場など、あるはずもない。玄関に乱雑に積まれたスニーカーが、1Kへの行く手を阻む。足が縺れながらも何とかサンダルを脱ぎ、キッチンとの隔たりにサイケな色の簾をジャラジャラと潜る。


帰宅したその足で網戸を半開き状態にし、そのついでに伸ばした右足の親指で扇風機のスイッチをONにする。このおんぼろマンションにエアコンという設備は付いておらず、まあ、だからこそ家賃が安いのだが、ひとりで生き抜くためには致し方ない。Tシャツとハーフパンツを脱ぎ捨て、ストライプのトランクスのみを装着したまま冷凍庫へ向かう。シャーベットの棒アイスの箱を無造作に取り出し、箱に手を突っ込んだ。


「最後の1本かあ……」


最後のぶどう味のシャーベットは、青と白のトランクスと並ぶと途端に映えて、綺麗だな、なんて思った。表面からぽたっと垂れた1滴が、股の間に紫の染みを滲ませた。


あ、ちょっとシたいかもな……。


返却期限をとうに過ぎたアダルトビデオを、VHSビデオデッキに押し込んだ。


_____


扇風機のお膝元、生活領域は扇風機様様の風が届く範囲になってしまった。煙草の空箱を眺めても、もう何も出てきやしない。給料日まで1週間、所持金954円。雑草でもしけもくでも焼肉でも、何でも食べてなんとか生き抜きますか。


ガチャン!タッタッタッ。


「ちょっとお」


現れたのは同い年の彼女。近所のレンタルビデオショップでアルバイトをしている。自分は早々にレンタルしていたビデオと共にバックれたが、未だに彼女は黙々と働き続けている。休みの日がほとんど無いらしく、明るく染めたストレートのロングヘアも、プリンのように根元に黒くカラメルが垂れている。


突然の来客に挨拶もない自分を無視し、部屋に散乱したティッシュやら菓子の包装を2、3個摘み上げ、ゴミ箱にひょいと放り投げた。彼女が落胆したのは、だらけていた自分にだろうか、それとも、ゴミだらけの無法地帯になったこの汚部屋にだろうか。そして彼女は、パッとローテーブルに目を移す。


「うゲぇ。片しなよ〜」


手形の付いたガラス張りのローテーブルの上には、恐らく3日前くらいに食べたであろうカップ麺の容器が異臭を放っている。カップ麺の汁は飲み干さない主義だ。でも今の状況では、それにも縋りたくなるほどの金欠だ。


「ほらよ」


彼女の手から放たれたのは、見覚えのある水色の小箱。空中でキャッチし損ねたが、ラッキーなことに胸元にどストライクで収まった。


「神様、仏様〜」


手を擦り合わせながら彼女のほうを拝む。煙草を咥える彼女の横顔は、すっかりヤニの似合う女になったものだ。出会った頃は煙草など縁もゆかりも無かった彼女が、自分の影響で肺を真っ黒にしていると思うと、無限に堕ちる背徳感が堪らなく気持ち良い。
ライターを親指で軽快に弾く。この動作を一生のうちに何千回、何万回とやるのだろう。そう考えただけで、既に右手の親指にタコができてしまいそうだ。


「空きっ腹で吸う煙草は1番うめぇよなー」


煙草とビールの1口目、それと初めて抱く女。これが男の至高だ。古臭いか?いいや、これは半世紀後もきっとそうだろう。
だけど、この煙草の味は一生忘れないのだ。淡くて、あっという間に過ぎてしまいそうな、脆い脆い日常は、永遠に忘れられないのだ。このまま時が止まればいいのに。今、女みてーなこと思った。


_____


「うめーもん食わしてやるよ」


「なんとなく今日はそんな気がしてた」と言わんばかりに、乾いた洗濯物を畳む手を止め、こちらにため息を吹きかける彼女。しかしその表情に諦めや失望といった様子は窺えない。はいはい、と微笑む顔は、母性のようにも見て取れる。


携帯よし、財布よし、さあ買い物に行こうか。スニーカーの紐を結んで歩み出すと、先に共有廊下に立っていた彼女が玄関を指差す。ドアが開けっ放しだ。悪ぃ、と片手で謝るポーズをとり、駆け足で茶色の重いドアを閉める。ガチャン!
少し出るだけだから、鍵は掛けなくても良さそうだ。2人して、仲良く直列繋ぎで階段を降りてゆく。出会った頃であれば、鍵を掛けろと文句を言われそうだったが、もうすっかりこちらの生活に慣れてしまっているらしい。


外はすっかり枯葉まみれになった。時折吹きすさぶ冷たい風が、肌の露出している顔や両手を刺激する。寒いから手を繋ごう、などと安易に言える性分でもなく、ただただ損をしている気分だ。


商店街の肉屋に来るのは随分と久しぶりである。1ヶ月もコロッケを食べないなんて、この街に引っ越して来た以来だ。まあ、先月来なかった、いや、来られなかった理由としては、給料日に生活費をほとんどパチンコでスってしまったからなのだが……。
彼女を連れて買いに来るのは初めてである。出来たてコロッケを食べた日にゃ、きっとこの美味さに取り憑かれて、肉屋の隣へ引っ越して来たくなることだろう。


おばちゃん、コロッケ2個。おばちゃんは、普段と違う注文に少し戸惑いながらも、「はいよ!」と威勢のいい声を響かせる。厨房の奥の親父さんは、よくここに来ている自分のことを知ってか知らずか、歯を光らせて笑い、こちらへ向けてグッと親指を立てた。ポカン、と2人並んでコロッケの出来上がりを待つ。


「お待たせ!いつもありがとう、1個おまけね!」とおばちゃんが齢55ほどのウインクをキツく結んだ。袋を開けると、3つ子の揚げたてほくほくのコロッケ。三つ子の魂百まで、この感謝は来世まで。ちょうど2個分のお代を支払い、「ども、また来ます」と告げて後にする。


住宅街、3番目の角を左へ。お気に入りのお煙草巡礼コース。ブランコにもたれる2人分の背中。吸う?と彼女へ煙草を差し出すが、今はいいや、と断られてしまった。コロッケが冷めないうちに帰ろうか。冷たい彼女の手を不器用に引っ張り、自分のアウターのポケットへ突っ込んだ。


_____


キィー。ガチャ。ピピーピピー。
帰宅と同時、自分の腹の虫が鳴く前に白米の炊き上がる音が1Kに響く。手洗いうがいを済ませると、時計の針はもう午後2時を回っていた。


炊き上がったご飯をどんぶりいっぱいによそい、その上に千切りキャベツのベッドを敷く。ふかふかのベッドに横たわるのは、堂々登場ほくほくコロッケ。3つのうち1つを半分に割り、1.5個ずつ取り分ける。上にほんの少しだけソースをかければ、コロッケ丼の完成。


柄の揃わない箸とコロッケ丼の器を、ローテーブルに2つちょこんと並べる。あ、ちょっと待って、と冷蔵庫を漁る。運良く1つだけ残っていた卵を手にした。マグカップに割入れ、水と共にレンジにかければ、あっという間に半熟卵になる。


「特別だぞ」


彼女のコロッケの上に半熟卵を丁寧にそっと乗せる。これが1番多過ぎず少な過ぎない、ちょうど良い幸せなのかもしれない。どうしようもないくらいに堪らなく好きだ。


窓の外からは下校する小学生の他愛もない話し声が聞こえる。自分も昔は一生懸命におしゃべりをして下校したものだが、何の話かは今となってはどうにも覚えていない。好きな女の子の話だったか、はたまた返却されたテストの話だったか。
人間はいつの間やら、1つの大きな川に押し流されて生きるらしい。どれだけ逆らおうとも、流れは上流から下流へ、結局行き着く先は決まっているのだ。飲み込まれないように、溺れないように必死でいると、自分を見失う。今の自分は、なんとなく、そんな気がしていた。


たまに作るコロッケ丼だから尚更、美味しいね、と笑いかけてくれる彼女がとても愛おしく感じる。サラダ記念日があるのなら、今日はコロッケ記念日にしようじゃないか。


ご馳走様でした。


_____


「ねぇ」


やはり何度攻略しても青髪のお嬢様との結婚を選択してしまう。幼なじみに心惹かれる気持ちもわかるが、それでは主人公が冒険に出た目的を見失っているではないか!亡き父への裏切り行為をみすみすとやってのけるなど、到底できないのだ。


「ねぇ」


……なんだ?



コントローラーを胡座をかいた膝の上に乗せ、ブラウン管から目を逸らして彼女のほうを見る。虚ろげに俯く彼女は、自分と目を合わせることもせず、やっと最近片付いたばかりの床をただただ見つめるばかりだ。少しの沈黙。そして、ようやく何かを言おうと、スゥと息を肺いっぱいに吸い込んだ。


「子供できた」


……。


「そっかあ……」


実家の弁当屋を継ごうと思う、と彼女は続けた。彼女の実家は埼玉の原市の方にあったはずだ。きっともう決心はついているのだろう。「就職しろ」「煙草をやめろ」言いたいことは、数え切れないくらいにたくさんあったと思う。しかし、彼女がそれ以降口を開くことはなかった。


ブラウン管の中の勇者は、【GAME OVER】の文字と共に死んだ。そうか、来年はあの公園で桜を眺め缶ビールで乾杯して同じ銘柄の煙草を吸う、しがない2人を見ることは無くなるのか。それもまた、人生の川の支流なのかもしれない。
案外、この状況を受け入れてしまっている自分に1番驚く。深く考えるふりをして、ヤニでうっすら黄色に染まりつつある天井を仰いだ。また少しの沈黙。そして、ローテーブルの上のストローの空袋を丸く結び、彼女の左手を優しく掬った。


「じゃあ、結婚するか」

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