赦しの模索

 聖書の赦しに関して議題に取り上げたいのが、『されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ』(マタイ伝第五章三十九節)の箇所である。
 ここではある種の究極の赦しが語られており、たった今生じた右頬を殴られたと言う問題に対し、そのことを気にとめることなくまた違う頬さえも差し出す。つまりは相手の両頬を殴ると言う行為とその動機にまでに赦しを与えていることが示されている。
 それに対して太宰は『人間失格』において主人公である葉蔵の妻、ヨシ子が強姦される描写をする。これは葉蔵の身に起こった出来事であるが、太宰と葉蔵とではあまりにも境遇が似通っており、(太宰はパビナール中毒の入院中に妻の初代に姦通を起こされている。ただし初代とヨシ子とでは条件が異なる)これは太宰の逆説的な追体験と言っても差し支えないだろう。
 それまで太宰は入院中に内村鑑三の随筆集を読みふけ、キリスト教に一種の希望を望んでいたのだが、同作品中に「果して、無垢の信頼心は、罪の原泉なりや。」と綴る程に変貌してしまう。赦す行為により身内、または自分の人間性の喪失を感じ取りキリスト教との決別の意味で人間失格を書いたのである。
 すると、赦しは太宰のように自己の破壊をもたらすのだろうか。必ずしもそうではない。
 太宰は否定したのだが、「奇跡」「復活」「心」「祈り」「天」などの非合理な要素を黒く塗りつぶした「トルストイの聖書」がある。
 これはトルストイが地上での救いを非合理なことではなく自身の行いで実現しようとしたことが表れており、その中で『されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ』の赦しというのは、祈りではなく自身の行動で隣人愛を実現する方法なのである。
 赦しというのは、太宰のように不条理を認め自身の崩壊を招くものだが、イエスの再臨を待つことや祈る事よりも能動的な愛の実現方法なのではないか。


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