どこまでのラインで表現するか

自分の書きたいことを書くことについて作家のLilyさんもよく書かれているが、私自身もたまに『これはアップしていいものかどうか』を考えて立ち止まることがある。そのため、私の下書きボックスには、アップしている以上の記事がある。そう感じるのはしょうがないし、時の流れの中で、できる時がくればアップすればいいやくらいには思っているんだけど。

自分自身のことを書く仕事をしているLilyさんは自分の子どもや社会的なポジションを考えて、その都度どこまで書けるかを悩みながら本を作り、自分自身のエッセイをつづっているという。立場は違えど、母として、仕事人としての自分はどこまで自分をさらけ出して書くかを同じく、模索している。

Lilyさん以上に、別に私が書いたから誰がどう反応するでも、社会的活動に影響がでるでもない、表面的にはもちろん。。

でも、誰かのママである私にとっては巡り巡ってその影響が子どもたちに及ぶ、わずかな可能性のことを考えてしまう。また仕事人である自分にとっても、自分の仕事上のポジションに影響を与えうる可能性があることは、したくない。

それが大人になるということなのだろうか。

私たちは大人になる中で、色々な自分の側面を持つようになる。

母としての自分

妻としての自分

子どもとしての自分

仕事人としての自分

友達としての自分

プライベートの自分(子どもありバージョン)

プライベートの自分(子どもなしバージョン)

などなど・・・

一番自分であるのは、、最後の部分であるような気もするし、いやでも今の自分にとってはどれかだけが一番自分である、なんて言えない。そして時を経る中で失っていく側面もある。

すべての要素のバランスの中で織りなされているのが自分、だから。

でも、一番表現しにくい、発揮しにくい最後の子どもなしの自分を表現できる場所は思いのほか少なくて、そのことが自分を苦しくさせることがたまにある。

だからたまに書くことで表現することは、ある意味健康度を保つためには大切なのかもしれない。こんな時代だからなおさら。。

環境が変われば、そのただの自分であることにまつわる欲求も変わってくるだろう。

例えば、子どもがいない人にとっては、その部分が趣味に打ち込む時間かもしれないし、夫がいる人にとっては、家族と離れて過ごす時間のことかもしれない。一人旅に行く時間がそれにあたるという人もいるだろう。私にとっては妻というアイデンティティを失った結果、生まれてきた新しい欲求がそこにはもちろん付与されている。

子どもの成長とともにできるようになることもあるだろう。

でもせっかく出てくる自分からの言葉はつづっていきたいと思う、それをアップするか否かはその時の自分に委ねるとして。

人前で言えることも言えないことも含めて、書き出すことによって、自分の中から織りだされたストーリーというのは鮮明になり、「人生っていいな~、楽しいな~」と思う。

そう感じられる自分を大切に生きたい、それが一番大切なこと。


cf.「 目元隠してオトナのはなし 30代も半ば、シガラミと恋、ここは東京」 by Lily

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