見出し画像

【小説】対の墜

おそらく、小説としては二番目、全体としては三番目に完成した小説。こういうことばかり考えている大学生でした。(約5,900文字)

---
                                     
 隣に女が座った。横目で女を見た。図書館の天窓から照らされる夕陽の強い逆光によって、顔は確認できなかったが、ゴシック体で書かれているタイトルだけは確認できた。相対性理論。
 女は僕に話し掛けてきた。何を勉強してるの?
 僕は横に積み上げている三冊のタイトルを順々に見せた。一冊一冊と見せるたびに女は丁寧に頷いた。それについて最近どういうことが問題なのかな、と女は訊いた。僕は京都議定書の問題について話した。女は相槌を打つのが上手く、頭に浮かぶだけの問題を僕は話した。最後まで話し終わると、そういう考え方もあるのね、と女が話を結んだ。
 アインシュタインの相対性理論って知ってる? と女は言った。大枠だけなら、と僕は答えた。それから女はアインシュタインが親日家だということ、アインシュタインが日本に来たときのエピソードを事細かに話した。
 あなたはアインシュタインの好きな日本人に生まれてきて良かったわね、と女は言った。僕は愛想笑いをした。次の瞬間、気づいた僕はもう一度愛想笑いした。あなたも日本人でしょう、と僕は訊いた。女は首を横に振った。中国の留学生? 再び女は首を横に振った。じゃあ韓国? あきれたように女は首を横に振った。それから僕は思いつく限りのアジアの国を挙げた。しかし、女は笑いながら首を振った。
 ヒントをあげる、ここの裏側よ。
 ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ペルー?
首が痛くなってきたわ、と女は言った。このまま私がバネの玩具になってしまってもあなたはわからない。口で説明するのは難しいわ。  
口で説明できないくらい小さな国なんですか? それとも国じゃない?
 ツイノセカイよ。
 ツイ?
 相対する世界。対の世界。
 僕はこの女が何を言っているのかわからなかった。現実と非現実の区別がつかなくなっているのかもしれない。だが目を見れば、その言葉が冗談でもないように感じた。
 対の世界っていうのは地球の何処にあるんですか?
 地球の裏側。
 僕は衛星から見た地球を頭に浮かべた。その行為は余計に混乱するだけだった。
 話を変えましょう、と女は言った。幽霊とかお化け、魂は信じる?
 信じません、と僕は言った。人間は死んだら灰になり、土に帰る。人間が何かを考えるときは頭を使う。いずれは脳もすべて灰になる。ですから、魂という存在もこの世には存在しません。
 あなたおもしろいわ。典型的なこっち世界の人間の考えることね、あなたのことが気に入った。もっとゆっくり話しましょう、と女は言った。
図書館を出た女と僕は、交差点の一角にある喫茶店『ブラックホール』に入った。大きな窓から外が見える席に座る。店内には心地の良いジャズがかかっていた。ウェイトレスが来ると僕はコーヒーを頼み、女はホットケーキを頼んだ。コーヒーはすぐきた。
 おもしろい形の砂糖ですね、と僕は言ってコーヒーの皿に置かれた砂糖袋を手の平に載せた。砂糖袋は露店ですくえるスーパーボール程度の大きさであり、球状だった。球状の砂糖袋というのは僕にとって珍しかった。砂糖袋をテーブルの真ん中に置くと、袋は女の方に転がっていった。僕は慌てて砂糖袋をコーヒーの皿に戻した。
 女は僕の動作にも目をくれず、無言で窓を見つめていた。僕も窓を見た。黒猫が急いで交差点を渡った。向こうに恋人がいるかのように。
 名前をまだ聞いてませんでしたよね? 僕は吉川っていいます。
 私の名前? そんなものないわ。
 名前がない?
 逆に聞くけど、あなたは地球上にある細胞のひとつひとつに名前を付ける?
付けません。
 それと同じことよ。そうね、やっぱり神様みたいなものは信じないのでしょう?
 僕は頷いた。
 あなたがこれまでで“これは神様がやったとしか思えない”と思ったことはない?
 ありませんよ。この世に起こる現象はすべて原因があるんです。例えば、何かの事件があって、あたかもそれが神様のしたことのように見えても、それは何らかの科学的現象で説明できる。もし、科学的に解明できなかったとしても、それはまだ発見されていない科学。この世のすべては科学で説明できます。
 女は笑った。ますます典型的ね。
 僕はテーブルの隅にある爪楊枝を取り出して、無造作に爪楊枝を折った。
何が典型的だって言いたいんです? 日本人としてですか? それとも男としてですか?
 この世界の人間としてよ、と言って女は微笑んだ。科学を信じて、科学的じゃないことは一切信じないこと。
 じゃあ逆に聞きますけど、さっきあなたが読んでいた『相対性理論』も科学の本じゃないんですか?
 違うわ。あれは哲学書であり、発見書なの。
 発見書……?
 アインシュタインは私達の世界の片鱗を見つけたの。
 私達の世界ってなんです?
 さっき言ったじゃない。対の世界って。
 対の世界ってなんです?
 あせらないで。まあ、あなたがわかるようにゆっくり説明してあげるわ。あなたは大学までどうやって行く?
 どうやって? 自転車で行きますけど。
 仮によ、あなたが自転車を漕ぐわね、そうしたらどうなる?
 どうなるって? 車輪が動き、自転車が前に進みます。
 地球の地面が動くことによって車輪が動き、自転車が前に進むとは考えられない?
 僕は少し考えた。
 それはありえません。だって僕が自転車を漕いでるんですから。もし、そうだとしたら、僕は地球を動かせることになってしまいます。
 そう考えて不都合なことある? 自転車を漕ぐことによって車輪が動くというのは幻かもしれないじゃない? 自転車を漕ぐことによって地面が動いたっていいと思わない?
 非現実的です。
 じゃあ、どうやって私が言ったこと間違いだって証明できる?
 僕は考えた。僕はスプーンでコーヒーをかき混ぜた。かき混ぜた渦がひと通り眺め、渦が静まってから言った。……できません。
 私の言ったことは理解してる?
 ええ、頭の中では。相対性の話ですね。
 そうよ。地面が動いてるから、自転車が動く。もっと言えば、地面が動いているから、あなたが自転車を漕いでいるとも考えられるでしょう?
そうは考えられません。
 どうして?
 だって自転車を漕ごうと思ったのは僕であって、地面ではないからです。
 車は乗る?
 環境に悪いから乗らないようにはしていますけど、たまに乗ります。
 そう、じゃあ……。
 もしかして、地面が動くからアクセルを踏んでると言いたいんですか?
 当たり。あなたなかなか感が鋭いわね。
 それも非現実的です。
 じゃあ、あなたは自分の行動のすべてが自分で意識して行っていると思う?
 ……思いません。
 人類の歴史は意識と無意識の狭間の決定によって作られてきたの。意識と無意識の狭間を自由自在に操ることができる人間がいたらどうする?
 意識と無意識の狭間……? そんな人間いるんですか?
 対の世界の人達はできるの
 もしかして、あなたがそうなんですか?
 そうよ。意識と無意識の狭間を操っている人達がいる世界。私が“対の世界人”。どう、格好いいでしょ?
 僕は黙った。
 と言っても私は落ちこぼれなんだけどね。
 僕はまだ信じられないんだけど、訊きたい。あなたはどうしてこっちの世界に来たの?
 警告。

 二段重ねのホットケーキが運ばれてきた。

 あなたに三問の問題を出すわ。すべて答えられたらあなたが疑問に思ってることすべてに答えてあげる。いい?
 もし答えられなかったら?
 ここの喫茶店代をあなたがおごる。
 僕は苦笑した。いいですよ。
 第一問。ここにナプキンがあります。これを裏返してください。
 僕はナプキンを右手でつかみ、手首を捻ってその場に置いた。
 バカにしてるんですか? 簡単ですよ。
 正解です。では第二問。
 女はホットケーキについているシロップを二枚あるホットケーキの一枚すべてにかけ、シロップ容器を僕に手渡した。
 それを裏返してください。
 僕はシロップ容器の底を両手の親指で力一杯押した。わずかに残っていたシロップがテーブルに飛び散り、シロップ容器は裏返った。
 何がしたいんです?
 よくできました。次はちょっと難しいわよ。最後の第三問。
 女は僕のコーヒー皿から球状の砂糖袋を取り、まじまじと砂糖袋を眺めた。
 これを裏返してください、
 女は砂糖袋を僕に手渡した。
 僕がそれを手に取って考えてる間、女は飛び散ったシロップをナプキンで拭いていた。それが終わると、たっぷりとシロップのかかったホットケーキを食べた。女の皿には何もかかってないホットケーキがあと一枚残っていた。僕の手には今、砂糖袋の球が存在する。
 球を裏返す? わからないな。
 降参する?
 ちょっと待って……ヒントをくれない?
 道具を使ってもいいわよ。
 ブラックしか飲まないから、この問題は僕に解けない。
 よくわかったわね。大丈夫、さっき一枚目のホットケーキにシロップ全部使っちゃったから、私のホットケーキにかけてくれて結構よ。
 僕はテーブルの端から爪楊枝を取り出し、球の砂糖袋に0・5ミリ程度の穴を開けた。中身の砂糖は女のホットケーキかけた。そして穴とは逆の位置にある所を爪楊枝の柄ではないほうで押し、穴から外に出した。さらにそこを押し続けると、球の砂糖袋は見事に裏返り、裏返った球ができた。
 よくできました。
 何でも質問に答えてくれると言いましたよね?
 女は頷いた。
 対の世界っていうのはどこにあるんですか?
 これよ、と女は裏返った球を指差した。
 僕は寒気がした。
 あなたは一体どこからやってきたんですか?
 女は裏返った球を手に取った。
 私がさっき爪楊枝で刺した場所に穴があるわね……ここからよ。
 僕は穴を覗き込んだ。何も存在していなかった。

 あなた達は私達の世界に操られてるの。あなた達は自分の頭で考えて、自分の体で何かしてると思ってるけど、それは幻。すべて私達が細胞レベル、もっと言えば原子・分子レベルからあなた達を操ってるの。
 なぜ、そんなことをしてるんですか?
 実験よ。私達人類は進化を続けたの。だけど、いつからか対の世界のある国は絶対的資本主義を理想と掲げて、自らの正義以外は全て悪とみなしたわ。俺達以外の国はすべて俺達の食と欲望のこやしである、と。だけど、その絶対的資本主義に対抗した国がいたわ。そして両国は戦争したの。
 絶対的資本主義の国が勝ったんですね?
 そうよ。そして世界は絶対的資本主義と服従的資本主義の二つに分断されたわ。絶対的資本主義の国はさらにその支配を強固にするため、ある実験をしたの。
 こっちの世界の人類を作りあげたんですか?
 そうよ。今、実験中なの。どうやったら支配が強固になるかって。対の世界と同じような状況をこっちに作りあげて、どういう状況になるのか実験中なの。絶対的資本主義の国は失敗を最も嫌うわ。
 僕達の世界を魔法みたいに一週間で作ったと言うんですか?
 いえ。原子・分子、そして細胞の段階から綿密にプログラムして、あなた達を作ったわ。
 だけど、時間はどうするんです? 仮に絶対的資本主義の国が私達の世界を作ったとしますよね。そしてありとあらゆる、人類まで進化する条件を対の世界の人達が創造したとしても、私達が微生物から人類にまで進化するのに何億年かかると思ってるんですか? そんなことする前に絶対的資本主義の国は滅んで実験どころでは無くなります。
 何言ってるの? 時間なんて相対的なものよ。アインシュタインの『相対性理論』に書いてあるでしょ?
 僕は頭が混乱しながらも頷いた。コーヒーを飲み干した。
 あなたはどちら側の国なんですか?
 教えない。ご想像におまかせします。
 あなたは一体何を伝えにこっちの世界に来たの?
 なんでだろ……? わかんない。

 一ついいこと教えてあげようか。対の世界の宇宙は白いんだよ。

 もし証拠があったら、あなたは納得する?
 僕は頷いた。女は残りのホットケーキを食べた。
 ねえ、私の家に来ない? いいもの見せてあげる。
 僕は頷いた。
 じゃあ、あなたにお願いごとがあるわ。実はお金を持ってないの。払ってくれない?
 僕は苦笑した。僕が会計を済ましている間、女は一足先に店を出た。僕が店を出ると、女は首にピンク色のリボンを巻いた黒猫を抱いていた。
 それ何?
 猫よ。知らないの?
 いや、そうじゃなくて。どこの猫?
 知らないわ。私が店を出たら、私を見てニャーって鳴いたの。可愛いでしょ?
 女はニャーと鳴いた。僕もニャーと鳴いてみた。黒猫は女の顔を見た。
 この猫は私と同じ運命を辿っている。
 女はそれっきり黙った。僕は黒猫の首に巻いているピンクのリボンを指差したが、女は無視し、黒猫を抱いたまま歩き出した。僕もついていった。
向こうの世界に猫はいるんですか?
 いないわ。観念ならいっぱい存在するけど。
 女は黒猫に頬擦りしながら歩いていた。現在、僕は意識と無意識の狭間で歩いているのだろうか。地面が動いているから僕は歩いているのだろうか。地面が動いているから僕は歩いている、と考えているのは僕ではなく、対の世界の人達が想像したことなのだろうか。
 僕は何ができますか?
 何も出来ないわ。あなた達は自分に与えられた宿命だけを実行してればいいの。食べて、寝て、生殖してればいいの。何も悲しむことはないわ。あなたが研究してる公害の問題なんかも、すべて私達の世界で計画したものなの。対の世界がすべてどうにかしてくれるの。
あなた達の計画した、この世界の地球の未来はどうなってるんですか?
 滅ぶのよ。
 僕は真っ直ぐに女の瞳を見た。
 あなた達は何もできないの。極めて無力。
 女は黒猫を胸に抱え、壊れてしまう物を扱うように黒猫の頭を撫でた。風向きが変わった。太陽を雲が隠した。
 女は突然立ち止まり、黒猫に向って呟いた。
 それって……悲しくない?

 どこにでもあるような築何十年に見えるアパートだった。女は鉄の階段を上った。鉄の階段の音がした。僕も鉄の階段を上った。女は206と書いてある所で立ち止まった。表札には何も書いてなかった。
 女はドアを開け部屋に入り、ドアを閉めた。僕は待つことにした。不思議と時間の流れが早く感じられた。僕も段々と対の世界のことを理解しているだろうか。そして、太陽は何の前触れもなく沈んだ。
 しかし、待っている僕に何の応答もなく、寒さに身を抱えている僕を部屋へと招きいれてくれなかった。僕はドアノブを握った。ドアノブは右に動いた。僕はドアを開け部屋に入った。女はどこにもいなかった。部屋の窓は割られていた。割られた窓の向こうに雪が降ってきた。初雪だった。
テーブルの上に紙切れが置いてあった。僕はそれを手に取って見た。
 あなたがこの世界で生きていると思っている限り、あなたは確かにこの世界で生きていないのよ。
 

「おもしろい」「興味深い」と感じられましたら、ぜひサポートをお願いします! サポートしていただけると、より「赤沼俊幸の写真都市」の活動への時間に使うことができます。ぜひよろしくお願いします…! (スキ!を押していただけると未発表フレーズがランダムで流れます😄)