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【小説】地下鉄での出来事

最後に完成させた小説。確か、25歳ぐらいに書き終えた小説。この小説の完成を機会に、小説を書くことから離れたんだと思います。偉大な先人の小説家と比べると、自分の作品の拙さがわかりますよね。しかし、拙さを感じつつも、努力できる人間が小説家になれたのかもしれません。僕にはそれができませんでした。ただ、30代後半の今、読み返してもこの小説は悪くないのではないか、とも思いました。(約17,580文字)

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 果美(かみ)はいつも地下鉄の先頭車両に乗る。
 理由は二つ。一つ目は運転席のフロントガラスから、レールや地下トンネルを見ることができる点。進行方向に存在する暗黒を切り裂いて、ヘッドライトの灯りを照らして走る地下鉄を勇ましいと思っている。果美は地下にいると、別の人間になれる気がしていた。地下では不思議なことが起こる。果美はそんな気がしている。
 果美は朝起きると、すぐ窓を開け、空気を入れ替える。日当たりがよい果美の部屋に眩しい朝陽が差し込む。太陽の場所を確認するとき、果美は薄目で考える。街では今日、どんなことが起こるだろう。
 ひんやりとした風とともに何かが頬に当った。頬にはしんなりとした感触が伝わる。手を頬に当てる。頬に触れたのは桜の花びらだった。あのときのお姉さんの言葉が果美の頭によぎる。少しの間、桜の花びらをじっと見つめた。
 朝ご飯を食べ、身支度を済ませると、果美は自分の部屋の真ん中で体育座りをし、あごを膝にのせる。体育座りをしている果美の背中に朝陽が当たる。時刻を刻む目覚まし時計の音と、水槽のエアーポンプ音だけが部屋に響く。
 果美の部屋には部屋の広さと不釣合いな大きいの水槽がある。果美は水槽の中の物体をじっと見つめた。エアーポンプによるわずかな水の流れで、その物体は水中を漂っている。頑張って生きよう、と果美はこの水槽を見るたびに思う。果美はその物体を取り出し、ビニール袋に入れ、口を堅く縛って鞄に入れた。スコップも入れる。
 果美は部屋のドアを開け、空を見上げる。今にも雨が降りそうな暗い雲に囲まれた薄暗い天気。あのときと似ている、と果美は思った。部屋に戻り、鞄に折り畳み傘を入れる。再び部屋を出て、十五分ほど歩いて地下鉄の駅に着く。地下鉄の先頭車両に乗り、目をつぶった。

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 果美の仕事場である工場では麻紗子(まさこ)という親しい同い年同僚がいる。麻紗子は果美と同じく、地方から上京。会社に近い寮に一人暮らしをしている。工場での新人挨拶時に境遇が似ていることに気づき、よく話すようになった。はじめて会った日から約二年。今では一緒に工場に通い、一緒にご飯を食べ、休みも一緒に過ごす仲になった。
 果美と麻紗子は餅を作る工場で働いている。もち米が工場に運ばれ、餅を出荷するまでの加工を行う工場で、平日と土曜日の週六日間働いている。
 餅工場は主に四つのグループに分かれている。
 一つ目はもち米から餅の状態になるまでを担当するグループ。トラックから米袋を降ろし、台車で製造室に運ぶ。製造室には神社の鐘と撞木のような巨大な臼と杵がある。運んできた米袋から、もち米を臼に入れ、タイマーをセットする。機械のスタートボタンを押すと、杵がもち米を高速でつつく。臼の底が自動で動く仕組みになっていて、満遍なく杵がもち米をつつく仕組みになっている。餅をひっくり返すことは機械ではできないため、タイマーが鳴ったのにあわせて、時折もち米をひっくり返す。ここの部屋は暑い。臼と杵を暖かい状態に保っておく必要があるため、製造室はつねに蒸している。
 二つ目は餅になりつつあるものを冷やす担当のグループ。一つ目のグループでできたものを台車に載せ、体育館ぐらいの広さがある冷蔵室に持っていく。台車からテーブル上に置き、棒で正方形上に伸ばす。二つ目のグループは製造室と冷蔵室を何度も往復する。一時間半後、餅をひっくり返す。さらにその一時間後、大きい正方形になった餅を再び台車に載せ、作業室に運び、次の工程に引き渡す。
 三つ目は運ばれた大きい正方形の餅を口に運びやすい小さい長方形の切断を担当するグループ。長い刀で餅を縦と横に切る。切った餅を箱に入れ、台車で袋詰め室に運ぶ。ここは製造室や冷蔵室と比べ平温であり、働きやすい。
 四つ目は袋詰め室に運ばれた餅を袋詰めを担当するグループ。透明の袋に規定の数の餅を入れる。規定の数は配達先によって異なる。その袋を袋詰め専用機械のU字型箇所のところに持っていくと、金のプラスチック止め具で袋の口が自動的に止まる。次に餅の入った袋をバーコード付けし、配布された配達表を見ながら、規定の袋数をケースに入れる。台車でトラックに運び、配達のトラック運転手が店舗に出荷する。ここも平温であり、働きやすい。
 グループは月による交代制になっている。工場には顔が覚えられないほどの多くの人が黙々と働いている。工場のスタッフ同士で親密な関係になることは稀だった。プライベートの詮索を嫌う人が多く、親密な関係を望まない人が多い。さまざまな事情や秘密があって、工場に働いている。餅が好きで働いている人はまずいない。誰しもが通過点としてこの仕事をしている。
 果美もまた、餅が好きなわけではない。工場も好きではないが、果美と麻紗子はお互いに唯一の仲がよい関係で、果美は麻紗子が一緒にいるだけで少しは前向きな気持ちで働けた。

 果美が麻紗子の死を知らされたのは、休日にテレビから流れる「ちびまる子ちゃん」をBGMにして一週間分の食事を作っている最中だった。
 果美の携帯電話には知らない番号からの着信があった。一度目は怖くて出なかったが、すぐに二度目の着信があり、電話に出た。
「もしもし」
「私、麻紗子の母です。果美さんだよね? いつもお世話になっています」
「あ……はい。麻紗子のお母さん……お世話になっています。どうかされましたか?
「聞いてる? 麻紗子、交通事故にあったみたいで」
「事故……交通事故……」
 交通事故という言葉が心の中で反芻する。高鳴りした心臓音が部屋に響く。動転する気持ちを抑えようとしながら、麻紗子が運ばれた病院の名前と住所を聞き、急いで外に飛び出し、タクシーをつかまえて病院に行った。

 すでに麻紗子の意識はなかった。ベッドで横になった麻紗子の顔は白い布に覆われている。布を取る気にはなれなかった。麻紗子との笑顔の思い出を崩したくない。ベッドの横にある椅子に腰掛け、麻紗子との思いを馳せた。
 果美が到着して、一時間後に麻紗子の母親が到着する。母親は医者の顔を一瞬見る。状態を察した母親は、医者と少ない会話を交わした後、涙が溢れ出た。ここまで来るまでずっと涙を溜めてきたのかもしれない。母親の鳴き声が病院に響いた。麻紗子が寝ている布団を濡らした。

 麻紗子が死んだ次の一週間、果美は何も考えられず、何も思わなかった。何かを思ったり、考えたりすると、黒い霧のようなものが頭に浮かび、気持ち悪くなる。麻紗子とのことを文章に残そうと思ったが、何も文章が書けなかった。文章を構成することができなかった。
 麻紗子がいなくなった工場は空っぽだった。想像していた以上に空っぽだった。その日から果美は遠いところにもう一人の自分がいて、遠いところにいる自分が自分の身体を動かしているような感じだった。幽体離脱をしていたのかもしれない。

 次の日曜日、麻紗子の母親が果美の家に訪れた。予定した時間より三十分遅れていた。玄関のドアを開けた麻紗子の母親は言った。「ごめんなさい、この街に来るのは二度目で道に迷ってしまって」
「別に大丈夫ですよ。とくに予定もありません。それにこの街は入り組んでいます。うちもよく迷います」
 麻紗子の母親の後ろには、知らない男がいた。果美が男と目が合うと、男は名刺を差し出し、弁護士だと名乗る。果美は名刺をポケットに入れる。母親と男が部屋に上がると、果美は麦茶と、煎餅を二人に出した。母親は喉が渇いていたようで、麦茶を一気に飲み干し、話した。
「今まで麻紗子と一緒にいてくれて、ありがとうね。麻紗子から、果美さんのことをよく聞いています。一番仲のよい友達だって」と母親は言った。
「そうですか。それは嬉しい……ことですね」
「良かったら、果美さんから、何か麻紗子のことを聞かせてもらえないかな」と母親は言った。
 果美は困った。話を組み立ててから、話したいが、もうしばらく思考できない状態が続いていた。仕方がないので、果美は出会いから順番に麻紗子との思い出を声に出した。思い出しながら、たどたどしく話す。母親は大げさに思えるほど、「うん、うん」と頷く。話している途中から、「うん、うん」という頷きにすすり泣きの声が混じり、目に涙が溢れた。
 果美は黙っていると、弁護士と名乗る男が言った。「続けてください。私にも聞かせてください」
 果美は話を続けた。話を続けていると、一週間止まっていた思考停止状態が解き放たれ、少しずついろんな思いや、感情が蘇ってくる。麻紗子の母親は本当に心の底から悲しんでいるのだろうか、と果美は話しながら思った。
 果美は麻紗子から母親の話を聞いたことがほとんどない。麻紗子はあまり母親のことは話したがらなかった。唯一、記憶に存在するのは麻紗子の趣味である部屋の熱帯魚を見て、お酒を飲みながら酔って話をしたとき、母親の話題が出たことがあった。母親と喧嘩して家を飛び出したこと、五年間会っていないこと、それでも何かがあったらまずいので、たまに手紙を出し、連絡先を伝えていること、だけど向こうからの連絡がないこと。
 果美は話し続けた。母親は泣いている。不思議なことにいろんな思い出話が出てくる。果美の中で、話している自分と、それを冷静に見て、考えている自分がいることに気づいた。
 ふと冷静になると、考えている自分は思う。麻紗子と母親の仲は良くなかったのだ。だが、やはり母親だ、悲しいのだろう。二人の関係をうちが詮索するのはおかしい。母親の願いを叶えてあげよう。話している自分に意識を戻らせ、話を続ける。
 一時間ぐらい話しただろうか。喉の渇きに、台所に立つ。
 母親は泣きながら、「本当にありがとう、果美さん」と言う。「暖かい友達に囲まれて、麻紗子はとっても、幸せだったと思います」
 麻紗子にも友達はうちしかいないんだから、囲めるはずないじゃないか、と果美は思う。
「とても、よい思い出ばかりですね」と弁護士と名乗る男は言う。
 悪い思い出をこの場で話せないじゃないか、と果美は思う。

 果美には麻紗子と一緒に工場で悪ふざけをした思い出があった。
 工場は二十四時間休みなく動いているが、唯一、日曜日の夜だけは休みになる。その間に機械のメンテナンスを実施することが多い。果美と麻紗子は大きな臼と杵に注目していた。
「あれに、餅以外のものを入れたら、どうなるのかな?」と麻紗子が言う。果美も興味を惹かれた。
 麻紗子がある日、「見せたいものがある」と言い、袋から人形を取り出す。触ってみると、妙に質感がリアルな八頭身の人形だった。フリーマーケットで見つけたらしい。
 その日から具体的に計画を練った。機械のメンテナンスが実施されず、社員は忘年会に参加している日曜日の夜があった。「ここしかないよね」と麻紗子は言い、カレンダーに赤い丸印をつける。
 決行の日がやってきた。工場に入るのは簡単だった。各機械の鍵をかけている板から鍵を取り出し、警備の機械の解除スイッチを押す。『製造室』に入り、麻紗子がいつでも逃げ出せるように窓を開ける。果美が機械の起動ボタンを押す。機械の試運転が始まる。機械の唸りの低音が部屋に長く響く。響いた音に思わず、見つかってしまわないか緊張する。杵が五回ぐらい上下に動き、臼も横に五回ほど動く。試運転は完了した。
 麻紗子が人形を臼の真ん中にセットする。アイコンタクトした。果美が機械の実行スイッチを押す。再び機械の唸りの低音が部屋に短く響く。杵は人形を正確に叩き、傷みつける。臼が動くため、各箇所を満遍なく、痛みつける。十回ほど叩きつけたあとだろう。何かが周りに放物線を描き、飛び散った。その飛び散る軌跡はスローモーションに見える。飛び散ったのは人形の各部位だった。果美は慌てて、機械の停止ボタンを押す。麻紗子は飛び散った部位をしげしげと見つめた。「おぉ」と言った。果美も「おぉ」と言ってみた。各部位は綺麗にそれぞれの方向に散らばっていた。麻紗子は飛び散った人形の各パーツを拾い集めた。「これは果美にあげる」と麻紗子は言い、差し出したのは人形の手だった。「ありがとう」と果美は言い、ポケットに入れた。麻紗子は「楽しかったね。帰ろうか」と笑顔で言った。果美は頷いた。
 そんな出来事を思い出しながらも、別の思い出を語れている自分がいた。ひととおり話し終えると、母親は「長居しても悪いので、そろそろ行きますね」と言った。母親は弁護士と名乗る男のほうを向いた。弁護士と名乗る男は頷き「今回の事故は相手に完全の非があります。果美さんも一番親しい友達として、とても悲しいとは思いますが、どうか気を落ち着かせてください。そして、慰謝料を勝ち取ってやりますので」と言い、果美に向かって微笑んだ。果美は目を逸らした。慰謝料はうちにも一部ほしい、と果美は思った。ここ二年間、一番一緒にいたのはうちだよ、と。
「そう、」と母親は言った。「これから麻紗子の部屋を片付けるんだけど、なにかほしいものとかあるかしら……?」
「そうですね。じゃあ、」と果美は言った。「あの大きい水槽をいただけますか?」
「いいけど……熱帯魚はすべて死んでしまったの」
「そうですか……でも構いません。うちは麻紗子が好きだったものがほしいんです」

 果美は次の日、いつも通り工場に出勤した。麻紗子がいなくなって二週目。先週と違うところは果美の頭が少しずつ動き始めてきたことだった。果美は黙々と餅を袋詰めする。だが同時に、袋詰めしながら、思考する自分がいることに気づく。
 どうしてうちは餅を袋詰めしているんだろう。どうしてうちはこんなに大量の餅を袋詰めしているんだろう。そう考えると、急にこの工場の広さを意識する。工場の広さと相対的に自分の小ささを感じる。
 仕事? 仕事ってなんだろう? お金のため……生活するため? 生活……生きていくこと? うちはなんで生きているの? 餅を袋詰めするため? なんで餅を袋詰めしているんだろう……そう、仕事のため? 仕事……? 仕事ってさっき、あったような気がするな。
 あの餅を切っている人は普段、何をやっているんだろう。何を思って仕事をしているんだろう? どうしてこの仕事をしているんだろう? 楽しいのかな? やっぱり楽しくはないのかな……じゃあ、生活のため? あの人の生活ってなんだろう?
 果美は目に映るものすべてに対して疑問が沸いた。目に映るすべての物体がそこに存在するのが不思議に思えた。二週間前まで果美は仕事を終えると、休憩室で麻紗子の仕事の終わりを待った。二人で仕事を終えると、一緒にファミリーレストランに行ったり、スーパーに行ったり、コンビニで夕食を買って、麻紗子の部屋で一緒にご飯を食べた。そのときは麻紗子の趣味である熱帯魚を見たり、熱帯魚の説明を聞いた。
 もう麻紗子はいない。休憩室で待つこともない。仕事を終えると、すぐ工場を出た。大きい通りに出ると、風が音をたてて果美に吹きつける。
「風……」と果美は呟く。そして果美は今、この瞬間、すべてが不思議だと思った。せき止められていたダムが崩壊したように、頭の中が大量の言葉でいっぱいになる。
 風はどこから来てやってくるの。すれ違う人はどこからやってくるの。鳥はどこから来て、どこに飛び立つの。春はどこからやってくるの。うちらはどこからやってきて、どこに向かおうとしているの。
 それら一つ一つは果てしないことだった。果美は周りにあるもの全てを知りたくなった。しかし何一つ知らなかった。何一つ知らないことに気づいたとき、果美はこの生きている世界からも疎外された気がした。この世界が急に遠くなる。
 うちはなにも知らないんだ、と心の中で果美は言う。心臓の鼓動が早くなる。果美に急な絶望感が襲ってくる。うちはこの世に存在していいのかな、と果美は思う。また風が吹く。意識が外に戻る。寒い。帰らなきゃ。歩く。歩きながら呟く。この世になんでうちは存在しているのかな、この世って何なのかな。
 家に着くと、もっと世界を知りたい、と衝動的に思った。工場に電話をかけた。
「もしもし。主任さんですか? 申し訳ないですが、明日は休ませてほしいんです。働いているときも寒気がすごくて、さっき家についたのですが、急激に寒気がきて……」
「そうか、季節の変わり目だからね。それと麻紗子さんの件もあるしね。いいよ。ゆっくり休みなさいよ」
 果美は優しさに感謝すると同時に、嘘をついた罪悪感を覚える。
 明日、うちは何を思うのだろう、と思いながら、布団に入った。

 翌日、果美はいつものように起きて、外へ出る。違うのは工場へ行かないことだ。曇天の空。果美は思う。あの燦々とした太陽はどこへ行ってしまったのだろうか。違う。雲がやってきたんだ。雲……雲は水蒸気からできる? 水? どうして雲ができるの? ……果美の思考が停止する。思考が進まない。
 地下鉄の駅に向かう。階段を下りる。地下鉄に乗るのは久しぶりだった。果美は思い返す記憶の中で、地下鉄に乗って、どこかに行き、何かを行ったこと記憶がないことに気づく。いや、そんなことはない。地下鉄に乗ったことはもちろんある。地下鉄に乗ってどこかに行き、何かをしたという記憶がないだけだ。
 この街で平日に地下鉄に乗るのは始めてかもしれない。平日の地下鉄は何かが違うだろうか。ダイヤが違う? 乗客が違う? 働いている駅員が違う? 車両が違う?
 ちょうど列車が発車した後らしく、ホームはすいている。果美は列の先頭に立ち、地下鉄が来るのを待つ。コンクリートの灰色の壁が目に映る。
 なんなんだろうあの灰色は、と果美は思う。無機質……温かみなんてない。クールでもない。冷たい、人を突き放すような灰色。落書きも目に入る。この落書きには美的感覚もない。ただただ、汚いだけだ。誰がなんの目的で落書きをしているの、汚いだけ。どうしてうちの気を滅入らすの、と果美は思う。
 地下鉄の到着を知らせるアナウンスが響く。視界の右側から薄い光が放たれる。地下鉄のヘッドライト。果美は右を向く。光が迫ってくる。薄い光は濃い光に変わる。光に吸い込まれそうになる。眩しい。眩しいよ。目をつぶる。光に包まれる。気持ちいい。目をつぶって光を浴びることはこんなに気持ちいいんだ、最近で一番気持ちがいいよ。
 光をしっかり感じようと思い、目を開ける。まぶしい。さっきよりまぶしい。まぶしいけど、気持ちいい。この光に身をゆだねることができたら楽だな、と果美は思う。
 麻紗子が死んだ。麻紗子が死んで一週間と少し経つ。昨日は誰とも会話しなかった。いや、電話ではしたか。でも、明日はしないだろう。明後日からはほとんどしないだろう。休みの日は、会話はできるかな。誰と会話をすればいいのかな。会話ってなんのためにするんだろう。楽しいから? 楽しかったっけ? うちはこの先、どうなっていくんだろう。どうなりたいんだろう。どうなればいいんだろう。このままあの工場で働き続けるのかな。働いたほうがいいのかな。うちはなんのために働いているんだろう。お金のため、生きるため……そう、生活か。生活? 生活って何? 生きるって何? うちは誰のために存在しているのだろう? うちを必要としてくれる人はいるの? 工場は必要としてくれるかな。工場のために生きるのがいいのかな。工場ってなに? 誰か教えて。神様、教えて。もう何もわからない。うちはもうなにもわからないよ。光に身をゆだねて楽になりたい。光に……。
 果美は目をつぶって、右足を踏み出す。重心が前方に移っていく。右頬に風が当たった。風……風はどこから来てるのかな。果美は目を開けて、風の吹く方向を見る。車両のヘッドライトの光が強く目に入る。痛い。果美は目をつぶる。車両から高い音が鳴る。地下鉄の先頭車両が果美の目の前を通り過ぎる。全身の力が抜けた。
 果美はふっと我に返る。膝から崩れ落ちていた。少しだけ意識がなかった。ホームの床に手をついていた。高音のブレーキ音が鳴り、車両が所定の位置につく。炭酸水が入った容器の蓋を開けるようなドアが開く空気音が鳴る。たくさんの足音が聞こえる。果美の後ろに並んでいる人が、果美のことを横目で見て、車両に乗り込む。老婆が声をかけた。
「どしたの? お嬢ちゃん。大丈夫?」
「はい……眩暈が……ちょっと……しちゃって」
 老婆は果美の目を覗き込む。軽く微笑み、言った。「そう、気をつけてね。じゃあ、おばあちゃんは乗るから」
 そう言って、老婆は地下鉄に乗り込む。発車を告げるベルが鳴る。ドアが閉まる空気音が鳴る。地下鉄が動き出す。果美は座ったまま、地下鉄を見つめる。地下鉄が走りだす。果美は地下鉄が見えなくなるまで、目で追った。音が遠くなる。
 ホームが再び静寂を取り戻すと、果美は我に返った。近くのベンチに腰掛け、目をつぶった。
 まぶたの裏には、まぶしい光が焼き付いている。光の感覚は気持ち良かった。だが、自分の起こした行動を思うと、寒気がした。動悸がする。息が荒くなる。果美の脳内で言葉が反芻される。うちは死のうと思ったんだ、と。
 三本くらいの地下鉄を見送った。ようやく動悸が治まり、普通に息ができるようになった。だが、身体に寒気があることに気づいた。果美は両手の手のひらに、息を吹きかけた。息の暖かさと、暖かさを感じる手の感触を確認した。
 突然、果美の肩を叩く男がいた。
「さっき見てたけどさ」と男は言った。声のほうを振り向くと、鴉柄のジャケットを着ている男だった。「言おうかどうか迷ったけど、さっき見て、ああ、って思って、トイレ行って大をしてたんだけどさ、戻ってきたら、あんたがいるから、もしかしたら、運命かもしれないって思って、一応教えとくよ」と鴉柄のジャケットの男はまくし立て、さらに続ける。「あんた、真ん中にいたけど、次、同じことをやるんだったら、後方車両側のホームから落ちたほうがいいよ。やっぱり引きずられるのは痛いからさ。後方車両側のほうがスピード出ているし、さっといったほうがいいでしょ。それじゃ気持ちよく死ねないよ。じゃあ」そう言って、鴉柄のジャケットの男は立ち去った。

 果美は改札を抜け、もっとも多い人並みについていく。地上へ出ると、排気ガスが混じった匂いがする。人並みは途中から枝分かれした。果美はとくに行き先が決まっていたわけではない。ビルの柱に背中をつける。周りにはイヤホンをつけ、携帯電話を操作している人たちがいる。
 音楽が聴こえる。果美は音楽が聴こえる方向を見る。街頭テレビからのミュージックビデオ。期待の新人がデビューするらしい。映像の上部には最新ニュースの文字が流れていた。親が子を殺した事件は無期懲役になったらしい。死刑を求める人がいるらしかった。天気予報もやっている。明日の天気は雨らしい。雷にも気をつけたほうがいいらしい。他にも、けたたましい音が聴こえる。視線を落とす。街宣車だった。黒い服を着て、はちまきを巻いた人が演説をしている。ワゴン車には難しい漢字が書いてある。視線を移すと、行列が見えた。パチンコ屋への行列。行列に並ぶ人たちは携帯電話を触ったり、演説をしている方向を見ている。視線の範囲に何人かの赤い服を着た人たちがいる。赤い服の人たちはヘラのようなもので、ガムをはがしていた。折り紙で鶴を折っている人がいる。戦争と地震によって亡くなった人に対して、祈りを捧げている。
 他には笑顔で高らかな声を出し、何かを配っている人たちがいた。果美は配っているものをひととおりもらってきた。消費者金融、パチンコ店、チャットレディのティッシュやエステの割引券、旅行会社のパンフレット、携帯会社のうちわ、大きい袋に入った化粧品のサンプル。どれも興味が持てなかった。全部捨てようと思い、ゴミ箱を探したが見つからなかった。鞄に押し込んだ。
 今この景色で見える範囲のことは少しわかったような気がする、と果美は思う。よし、と思い、賑わっている通りを歩く。突然、横から黒い腕とティッシュが出てくる。見上げる。笑顔の背の高い黒人だった。白い歯が目立つ。笑顔でよくわからない言葉をかけられる。よくわからなかったので、無視をして早足で歩いた。
 人にぶつかりそうになりながら、人と人の間をすり抜け、通りを歩く。ファストフードや質屋、アパレルショップ、電気店、パスタ屋、カフェ、消費者金融、クレープ屋、カラオケ、牛丼屋、ラーメン店、ゲームセンター、占い屋……色んな店があるんだなと果美は思う。目の前を歩く、だぼだぼのジーパンを履いた金髪の人は通りにガムを吐いていた。吐かれたガムに視線を移すと、視界にうつ伏せの人がいることに気づいた。
 果美は近づく。長い白髪で、作業着のような服を着ている。老人だろうか。この老人は寝ているのだろうか、死んでいるのだろうか。周りを見る。誰しもが関係しないようにその場所を通り過ぎる。そうだ、この老人とは誰もが関係ないんだ。
 歩き疲れた果美は喫茶店に入り、アイスティーを頼んだ。席で目をつぶる。店内にはジャズが流れている。
 窓から街を眺める。歩いている人がたくさんいる。この人たちはうちのように、世界がどうなっているんだろう、と考えるのだろうか。
 長い黒髪が綺麗なお姉さんがアイスティーを運んできてくれる。美味しい。身体の隅々までアイスティーが染み渡る。次はどこに行こうか。どこに行けば、この世に起きていることがわかるのだろうか。

 果美は入り口のラックにある週刊誌を手に取った。政治家批判や企業告発記事、警察と公営ギャンブルの癒着、不倫、破産、スポーツ選手の不調の話。読んでいると気分が悪くなってきた。世界は憎悪に満ちているのだろうか。ひととおり週刊誌の記事を読み、アイスティーを飲み終わると、喫茶店を出た。
 立っていると、いろんな人に声をかけられた。「アンケートにご協力いただけませんか? 簡単なアンケートに答えていただけるだけで、エステの割引券を差し上げます」「手相占いの勉強をしています。手相を見てもいいですか?」「お金に困ってない? 君は可愛いから、簡単にお金を稼げる仕事があるんだけど、どうかな?」
 果美はすべてを無視して歩いた。迫り来る人をよけてもよけても、人がやってくる。果美は街に息苦しさを覚えた。みんなは何かの目標を持ちながら、歩いているのだろうか。みんなは何を思っているのだろうか。うちは何を思えばいいのだろうか。
 果美は軽い眩暈がした。今日は休もう、と思った。久しぶりの街に身体がついていかない。果美は地下鉄の駅に向かった。
 改札を通ると、地下鉄の到着を告げるアナウンスが鳴る。果美は慌てて、階段を下った。地下鉄はまだ到着していない。間に合った、と果美は思った。果美はホームに立つ。視界の遠くに地下鉄のライトが見える。光が迫ってくる。果美は咄嗟に目をつぶる。今日の午前の記憶が蘇る。うちはあそこに飛び込もうとしていたんだ、と果美は思う。目を開ける。光は近づいてくる。ホームの先頭に人がいる。ホームぎりぎりに立っている。あのときのうち?、と果美は思う。その人は、ふわっと、落ちた。落ちた……? あれは、うちじゃない。
 鈍くて大きい音が聞こえた。膝の力が抜け、その場にしゃがみこんだ。耳を引き裂くような金属音がホームに響く。音の方向から、何かの物体が飛んできた。果美にはその動きがスローモーションのように見えた。山なりの放物線を描き、飛んできた。しゃがんでいる果美の膝から十センチぐらいのところに、その物体が落ちた。果美は軽い眩暈を覚え、焦点が合わず、落ちた物体が何かわからなかった。ただじっと、見つめ続けると焦点が合ってくる。それは「手」だった。手首から上の「手」だった。
 地下鉄から激しい音が連続して鳴った。ホームのあちらこちらから、女性の甲高い悲鳴が聞こえる。
「ねぇ。また会ったね」
 果美は後ろを振り返った。さっき会った鴉柄のジャケットの男だった。
「どう? 実際やっちゃった人を見るのは? その様子を見ると、たぶん、あんたは初めてだよね、見るのは。俺はね、よく見るんだ。この現場。相性みたいのものかな。俺はあまり地下鉄を使わないんだけどね。そう、二つのタイプがあるんだよね。地下鉄にぶつかって、そのまま地下鉄に引きずられるタイプと、今の人みたいに飛び散るタイプ。これはさ、あくまで俺の感覚なんだけど、引きずられるタイプはもうこの世でしたいことをやり終えたタイプ。レールの上での一生のさよなら。飛び散るタイプは、まだこの世でやり残したことがあるタイプ。レールの上じゃ終われないよ、ってね。各々の身体の部分が、まだ生きたいよ、って言っているように感じるんだ。まぁ、後方車両側はもっとも早くホームに突っ込んでくるから、勢いが強いっていうのもあるんだけどね」
 男はそう言い終えると、間が空いた。一方的にまくし立てる男だっただけに、空いた間は果美に喋る順番をより強く与えるようだった。しかし果美はあまりに呆然としていたため、何を喋っていいか、なんと相槌をしていいのか、わからなかった。
「実際見て、どう? あんなふうになりたい?」
 男と果美の目が合った。やはり果美は言葉が出てこない。男はその様子を確認すると、背中を向けて、歩いて行った。果美は正面を向いた。やはり、すぐ前に「手」があった。果美は周りを見た。その場から走って立ち去る人、膝をつきしゃがんでいる人、泣いている人、黒いビニール袋を持ち走ってくる駅員。周りは誰も果美のことを見ていない。果美は昼間もらった化粧品のサンプル袋から化粧品を取り出して鞄に入れ、サンプル袋にその「手」を入れ、袋の口をきつく結び、鞄にしまった。果美は慌しくなりつつあるホームから改札へと走る。ブルーシートを持った駅員の人達とすれ違った。
 出口を抜け、地上へ出た。地上では地下の騒然とした空気はまったくなかった。変わらず、たくさんの人は歩き、車は走り、空には雲があった。
 果美は喫茶店に向かって走った。喫茶店が唯一、この街で落ち着ける場所のように思えた。一刻も早く落ち着きたかった。
 喫茶店の扉を開けると、ドアのベル音が鳴った。ベル音が鳴り止まないうちにカウンターに座った。他の客は誰もいないようだった。
「あれ? さっきも来てくれたよね。もしかして、忘れ物とかかな?」
「いえ、違います。地下鉄が止まってしまって……それと、もう一回、ここのアイスティーが飲みたくて」
「ありがとう。ちょっと待ってね」お姉さんは微笑み、アイスティーを入れる準備に取り掛かった。
「お姉さん、話を聞いてもらってもいいですか?」と果美は言った。
「もちろん。でも他のお客さんが来たら、話を中断してしまうかもだけど」
「大丈夫です」と果美は言った。「さっきね、あの地下鉄で飛び込んだ人がいるんです」
「そう……なんだ。言われてみれば……何やらサイレンの音がいっぱい鳴っていた気がする」
「うち、見ちゃったんです」
「見ちゃった? 飛び込むところを?」
「そう。すぅーと飛び込んじゃったんです」
「そっか」お姉さんは息を一つ吐いた。
「ごめんなさい、突然こんな話をして」
「いいえ」お姉さんは優しく微笑んだ。「あの駅は飛び込む人が多いから」
「そうなんですか……さっき人が死ぬところをはじめて見て、急に生きていることと、死んでいることの境目がわからなくて、確認したくて……」
「そう」
「まだ話しても大丈夫ですか? 気味が悪い話じゃないですか?」
「ええ、大丈夫よ。気味は悪いけどね」お姉さんは果美に向けて、笑顔を見せた。
「ありがとうございます。お姉さん、優しいですね。どうしても今、感じたこのことを誰かに伝えたくて……言葉にして、今の思いを忘れないようにしたいんです。お姉さん、聞いてくれますか?」と果美は言った。
 お姉さんは柔らかく微笑んだ。
「うちは工場で働いているんだけど、働いていたり……生きていたりするとき、生きていて良かったな、って思うことなんてほとんどないんです。一つだけ、大切な友達がうちにはいて、その友達と一緒にいる時間は楽しかったんです。だけどこないだ、その友達は死んじゃったんですよね。そうしたらうちは、生きている意味がないんじゃないかなって思ったんです。そうだ。お姉さんは生きていて楽しいって思いますか?」
「そうね、楽しいって思うわよ」
「どんなときですか?」
 お姉さんは頬杖をついた。「そうね、いろいろあるわよ。たとえばまだ寒いけど、もうすぐ春じゃない。春になったら、桜が咲く。公園で花見をしたことはある?」
「いいえ。混んでいるのは嫌なんです」
「たしかに混んでいて、花見の客は騒がしいけど……一面の桜の道を歩くのはとても気持ちがいいものよ。咲いている桜を見るだけでも綺麗なんだけど、桜の花びらがひらひらと舞い降りるの。美しいものを見るのは楽しいことよ」
「そうなんだ。こんど行ってみます」
「春の暖かい日に家を出るじゃない。天気が良くてポカポカした日ね。空を見るの。太陽が燦燦と輝いているの。私を祝っているように感じるのよ。今日という、今日だけしかない日を祝ってくれるように思うの」
「うちにはまだそこまでわからないけど……こんどは注意して見るようにします」
「春の話ばかりしちゃったね。冬、寒い日、家に帰ってきて、こたつに入りながら飲むホットココアは幸せって感じるよ。ああ、これから冷たいものを飲むのに温かい飲み物の話をしちゃったね。ごめんなさいね。はい、お待たせ、アイスティーどうぞ」
 果美はストローに口をつけ、アイスティーを飲んだ。
「美味しい」
「ありがとう」
「お姉さん」
「なあに?」
「さっき地下鉄で死んだ人、どんな人なのか、どうやったら知れるかな?」
「そうね……その人の名前がわかればいいんだけど。駅で教えてくれないだろうし、第一まだ身元がわかってない可能性が高いしね。自殺した人っていうのは、ニュースでも報じられないし」
「え? ニュースでやらないんですか?」
「ええ。よっぽと特別な自殺を除いてね」
「そうなんですか」
「たしか……大体、一年で三万人以上が自殺で死んでいるのね、だから一日百人くらいかな。テレビでも新聞でも百回も自殺のニュースを流したりしないでしょ」
「たしかに、そうですね。じゃあ、さっき死んじゃった人っていうのは、家族とか知り合いの人以外のうちとか、さっき地下鉄にいた人にしか死んだことって気づかれないってことですか?」
「そうね、ほとんどそうじゃないかしら」
「ほとんど……うちはそんな死に方、いやだな」
「おまけに迷惑をかけちゃうしね。私は人の死までに口を出せる立場じゃないけど、いいとは思えないわ。あなたみたいに、地下鉄に乗れない人もいるし……でも、地下鉄が止まったおかげで、またあなたが店に来てくれたかな。少しはいいこともあるかもね」お姉さんは微笑んだ。
「そうですね、うち、またお店に来られて、お姉さんと話せて良かった。実はね……お姉さん……うち……あの地下鉄に今日……飛び込みそうになったんです。でも、本当に自分が飛び込もうと思ったかはわからないけど……光にすぅと吸い込まれそうになったの。すぅと。そのときは飛び込まなかったけど、次にまた同じ感覚が来ていたら、飛び込んでいたかも……。でも、でもね、さっき、他の人が飛び込んでいるのを見て……少なくともうちは……ほとんどの人に知られず死んでいって、迷惑をかけてしまう、肉の塊にはなりたくないなって思ったの」果美がそう言い終えると、お姉さんは微笑み、オーダーを呼ばれたお客の元へ向かった。
 ちょうど店内に流れている曲が終わった。店内が静かになる。アイスティーの氷が溶け、コップと氷が当る高い音が店内に響く。再び、店内にはジャズが流れた。オーダーを取り終えたお姉さんが戻ってくる。
「良かったら、また来るといいわ。もっとゆっくり話しましょう。そう、うちの店、スタンプカードがあるの。午前に来たとき、押してあげられなかった分も押してあげるね。雨の日はスタンプカードが二倍なんだけど、地下鉄が止まった日はスタンプカードが五倍になるんだよね、すごいでしょ。それで、ほら」お姉さんはカードにスタンプを勢いよく押していった。「これでちょうど十個溜まった。次回、これを持ってくれば、アイスティー無料だからね。ああ、もちろん、他のメニューでもいいよ。あと、ここの喫茶店はケーキも美味しいって評判なのよ」
「お姉さん、ありがとう」果美の目が湿った。

 ★

 目的地の地下鉄の駅に到着を告げるアナウンスで目が覚めた。随分と長く眠った気がする。慌てて起き上がり、改札を出て、地下鉄出口の階段を上がった。地図を見ながら、果美は多くの占い師が集まるという『占いの館』に向かう。お姉さんに聞くと、街で有名な占い師が集まるところであり、街で一番評判のよい手相の占い師がいるところらしい。かなりの人気であり、通常は予約でいっぱいのようだったが、お姉さんが手相の占い師と知り合いらしく、特別に常連向けの予約時間を融通してもらった。
 地図を見ながら行くと、スナックのような店が多く入っている雑居ビルの三階にその占いの館は入っていた。受付で予約をしていることを告げ、待合室で待つ。名前を呼ばれ、二畳ほどの小部屋に入る。
 手相の占い師は優しく微笑みかける。果美は椅子に座った。
「ではまず、あなたの左手を差し出していただけますか?」と占い師は言った。
 果美は唇を噛み、首を横に振る。
「占ってほしいのは、うちの手じゃないんです」と果美は言った。
「はぁ……というと?」占い師は困惑した。
 果美は鞄から、紙を取り出す。紙には詳細な手のひらの絵が書いてあった。占い師は紙を一分ほど眺めた後、言った。
「知り合いの方ですか? 申し訳ないけど、これじゃ難しいね……こんど、その人を連れてきてもらえますか?」
「もう連れてくることはできないんです」果美は首を傾け、唇を尖らせた。
「そう。それは難しいわ、申し訳ないけど」
「そうですか。じゃあ、えっと……これからのことは他の人に話したりしないって約束してもらえますか?」
「もちろん。お客様の秘密を守ることも私たちの仕事の一つです」
「それじゃ……少し待ってもらえますか?」
 占い師は頷いた。果美は鞄から、袋を取り出し、袋の中から「手」を取り出し、テーブルの上に置いた。占い師は言葉に詰まった。
「普段は水槽に入れていて、ふやけちゃったんですけど、これ、人の手です。うち、この人に命を助けられたんです。この手はうちの命の恩人なんです。でも、この人のことをうちはよく知らないんです。だから、この人はどんな人生だったか知りたくて。この手の人がどんな人生なのかをうちは知りたいんです。この手からこの人がどんな人生だったか、どんな人だったか教えてもらえますか?」

 果美は占いの館を出た。占いの結果をメモした手帳をポケットに入れ、通りに出た。空を覆っていた雲はなくなり、眩しい太陽が顔を覗く。果美は太陽の陽射しを嬉しく感じた。再び地図を取り出し、通りを歩いていると、騒がしい声が聞こえた。声のほうを見ると、目的地の公園があった。公園に行くための歩道橋の階段を上がる。歩道橋の上から車道を見下ろす。いろんな車が走っている。とても速いスピードで走っている。いろいろな人が乗っているのだろう。いろいろな目的を持って、車を走らせているのだろう。この道路はどこまで続いて行くのだろう、と果美は思う。歩道橋の階段を降りて、公園に入り、舗装された道を歩く。真紅の桜が近づいてくる。手に風船を持った小さい女の子がスキップして、果美を追い抜いたが、何かにつまずいたようで転んだ。果美は女の子のところに駆け寄る。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。お姉ちゃん、ありがとう」
 小さい女の子はそう言い、起き上がり、膝についた土を払い、再びスキップして、真紅の桜のほうへ消えていった。果美は一つ息をつき、同じ方向へ向かっていく。歩く毎に和気藹々とした騒がしい声が大きくなってくる。果美は自然と笑顔になれた。そこでは一人ひとりが楽しくやっている。楽しんでいる人がこんなにいるのだ。
 満開の桜の通りを歩く。露店もあり、ジュースやビールを売っていたり、焼きそばやお好み焼き、たこやきなどの鉄板屋、フランクフルト、クレープ屋、わたあめ屋があった。果美は金魚すくい屋に行き、一回目で金魚をすくう。
「お嬢ちゃん、上手だね」金魚すくい屋のおじさんが行った。「今、お嬢ちゃんがすくったのはオスみたいだね。どう、メスもいなきゃかわいそうだろ。もう一回やらない?」
 果美はお金を渡した。「おじさん、どれがメスですか?」
 おじさんは指をさした。果美は再び一回ですくった。
「お嬢ちゃん、上手だね」
「ありがとう。細かい仕事は得意なんです」
 二匹の金魚と水が入った袋を果美は受け取り、鞄へ入れた。再び歩き出した。
 果美の視界、一面にたくさんの桜の花びらが右から左、左から右へと、曲線を描き、舞い落ちていく。果美は一度立ち止まり、目をこらして舞い落ちる花びらを見ると、その軌跡はスローモーションに感じた。果美はそのスローモーションの感覚から、頭の中に黒い影のようなものを感じる。果美は頭を振り、立ち止まるのを止め、桜の花びらが舞い落ちる道を歩き続けた。
 公園の隅まで行くと、疲れを感じ、ベンチに座る。目をつぶり深呼吸すると、まぶたの裏に再び、桜の花びらが舞い落ちる光景と、さまざまなな光景がシンクロしそうになり、目を開けた。動悸がする。しばらく深呼吸をすると、徐々に収まった。
 視界の先にトイレがあり、その近くに周りとは孤立している桜の木があった。果美はその木に向かう。桜の木が多くあるところが花見の人気場所のようで、果美の目の前にあるような一本だけ立っている木に花見客はいなかった。
 果美は鞄を開け、スコップを取り出した。スコップで桜の木の根に穴を掘った。土は固かったが、懸命に掘った。鞄からビニール袋を取り出した。縛ってあった袋の口を開けて、桜の花びらをいれ、再びを袋の口を閉めた。その袋を掘った穴の中に入れ、再びスコップで土を戻した。果美は手を合わせた。

 公園を出た。来た道を戻り、地下鉄の駅へ向かった。階段を下り、ホームに着くと、電光掲示板を確認した。あと一分で地下鉄が到着する。果美は先頭車両側の列を目指して、ゆっくり歩いた。歩いていると、目線の先にいる女性が膝から崩れ、倒れてゆく光景が果美の目に映った。地下鉄の汽笛が鳴る。果美の心臓の鼓動が早くなる。いろんな光景が果美の頭に蘇る。果美は走って、女性の元へ向かった。幸い、ホームの下には落ちていないようだった。
「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
 果美は上半身を抱え、女性の顔を見た。女性は目をつぶっている。地下鉄のライトが視界に入る。女性は薄目を開いた。
「大丈夫ですか!?」果美はもう一度、言った。
「子供……生まれるかも……」
 地下鉄が到着した。扉が開いた。乗客は地下鉄から降り、果美と倒れた女性を横目で見ながら、その場を通り過ぎた。果美は腹が立った。果美は大きく息を吸い、生涯で一番大きい声を振り絞って駅員を呼んだ。

(了)

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