神様のギフト

 電話をかけた。
 呼び出し音を数える。1,2,3,4,5,6……。
10、と幸が呟いたとき、懐かしい声がした。
「はい、沢田です」
「あ、母さん? 私、幸」
「幸? 久しぶりじゃない。元気? どうしたの? 今まで電話もろくにかけてこなかったのに」
「母さん……あのね……」
 私は口ごもる。持っているスマホがだんだん熱くなる気がした。
「……どうしたの? なにかあったの?」
「……私、妊娠した」
 意を決して発言した私の声を聞いて、母は裏返った声で言った。
「……え?」
 母の声が固くなっている。
 私は頬に空いている手を当てて、もう一度母に言った。
「母さん。私、子どもができたの」
「父親は誰なの?」
「学校のサークルの同期」
「名前は?」
「野村カイト」
「父親は……相手はなんて言ってるの?」
「おろせって言われた」
「……」
 電話越しに母親の重いため息が聞こえた。
 カイトとは、大学の軽音サークルで出会った。カイトはボーカルで、私はベースだった。
 最初の印象は、顔はいいけど自意識過剰で嫌な奴だった。
でも、カイトの歌声を聞いた瞬間、私は恋に落ちてしまった。ロマンチックな歌詞とメロディーが、私の心に突き刺さった。少しの時間が過ぎて、私がカイトに告白して付き合うことになった。カイトは女性と付き合うのに慣れているみたいだった。
 私はすぐにカイトに夢中になった。
 そして、カイトに言われるまま、一夜を共にした。
 男の人と交わるのは初めてだった。
 痛みでうめく私を、カイトは嫌そうに見つめて言った。
「なあ、そんな顔するなよ。なんか、俺が悪いことしてるみたいな気になるじゃん」
 私は痛みであふれてくる涙を飲み込んだ。
 カイトは私のことが好きなわけではないかもしれないと、やっと気づいた。
 私は自分で描いた恋の妄想に溺れていただけだった。
 カイトは冷たくなった。私はカイトに好かれるように、彼の言うことに従ったけれど、言うとおりに振舞えば振舞うほど、カイトの気持ちが私から離れていくのが分かった。
カイトと交わった月から、生理が来なくなった。私は怖くなった。けれど、勇気を振り絞って薬局で妊娠検査薬を買って自分で調べた。結果は、妊娠陽性だった。
カイトに子供ができたことを告げると、彼は「は?」と言った後、頭をぼりぼりかいて私をにらみつけた。
「馬鹿じゃねぇの? で、いつ病院行くんだ?」
「ついてきてくれるの?」
「あ? なんで中絶に付き合わなきゃなんねーんだよ」
「え?」
 私は、おなかの子供を殺すなんて一言も言ってない。
「じゃ、バイバイ」
「え?」
「別れる。妊娠するような馬鹿と付き合えるわけないじゃん」
 ひどいと言う気持ちにさえなれないほど、カイトはどうしようもない男だった。

 初めて母親に妊娠を告げてから一週間ほどたったある日、スマホがなった。
 画面には『母』と表示されている。
「もしもし、幸です」
「幸、体の具合はどうだい?」
「うん、落ち着いてる」
「子どものことだけど……」
「……うん」
「……産みなさい。私たちも一緒に育てるわ」
 母の声は、力強く明るかった。
「父さんも……力になってくれるの?」
「子どもは神様からの授かりものだからね。父さんは私が説得するから安心しなさい」
 私は母の言葉を聞いて、どこか張り詰めていた気持ちが、ほろりとほどけるような気がした。
「……私、一人でも産むつもりだった……。私の子どもだもん」
「そうね。あなたの大切な子どもよ。……馬鹿な男は……殺しなさい」
 母が極めて真面目な声で言うので、私はなんだか笑いそうになってしまった。
「……ふふっ。……もう死んでるわよ、私の中では」
「じゃあ、体に気を付けるのよ」
「ありがとう、母さん」
 私は電話を切ると、ふう、とため息をついた。
 気持ちが落ち着いた私は、何となくテレビをつけた。テレビでは男性歌手のオーディション番組が流れていた。
 私はテレビをつけたまま、食器洗いをはじめた。テレビから、聞いたことのある声がしてドキリとして食器洗いの手を止めた。
「はい、歌うことは大好きです!」
 私があわててテレビを見ると、そこには無邪気に笑うカイトの姿が映っていた。
 私は食器洗いを中断してテレビの前に座った。
 他の挑戦者と一緒にボーカルレッスンを受けるカイトは、輝いて見えた。
「え……? 何かの冗談でしょ?」
 私はテレビに向かって呟いた。
「優勝は……野村カイトさんです!」
 オーディション番組の司会者が、カイトの名前を呼んだ。
「ありがとうございます!!」
 満面の笑みを浮かべて、カイトがガッツポーズをしている。
 私は呆然としたまま、テレビをぼんやりと眺めていた。
 番組が終わり、いくつかのコマーシャルが流れたところでスマホが鳴った。
「幸、テレビ見た?」
「え? カイト……いまさら何? ……優勝を祝ってほしいの?」
「は? そんなんじゃねえよ。俺、歌手デビュー決まったから、ゴシップとか困るんだよね」
「え?」
「俺、芸能人になるからさ。俺の子、おろしたとか絶対言うんじゃねえぞ」
「……言わないよ」
 おろしてないことも言うつもりはなかった。カイトと私の子どもに、父親がいることを言うつもりも私にはなかった。
「良かった! じゃあな」
 カイトの声が急に明るくなり、ツーツーと電子音が聞こえる。
カイトからの電話はかかってきたときと同じように一方的に切れた。
 私はカイトの声を聞いて、気分が悪くなった。
「あんな奴、父親になれっこない……。あなたは私が、幸せにする……」
 私は膨らんできたおなかをなでて、かみしめるように小さな声で誓った。

 おなかのふくらみが目立つ前に、私は一年間の休学をすることにした。
 母に相談したら、「分かった、大事な時期だものね」と、快く了承してくれた。
 ただ、大学はきちんと卒業するようにと念を押された。高卒で手に職があるわけでもない若い女が良い仕事につくのは簡単ではないというのが母の意見だった。私もそう考えていたけれど、学費や生活費が心配だった。妊娠している身で生活費を稼げるくらいのバイトを続けることはむつかしい。母は私の心配をもっともだと言い、私に実家に戻るように、と言った。私は一人暮らしの部屋を引き払い、実家に帰ることにした。
子どもが生まれるまで、のこり半年を切った。
私は近所のスーパーでレジ打ちのバイトをしながら家事を手伝った。
「幸、料理がうまくなったわね」
 母は私の作ったお味噌汁を味見して、にっこりと笑った。
「一人暮らしで鍛えられたから」
 私と母が料理をしているわきで、父親が食器を並べている。
「幸の茶碗、とっておいてよかったな」
 父親が呟くように言った。
「父さん、家事なんて手伝う人じゃなかったのに」
 私がこっそり母に言うと、母はわらって答えた。
「同僚が熟年離婚したって言ってね……考えるところがあったんじゃない?」
 母親の笑顔が、すこし怖かった。
 料理を並べて、三人で食卓に着いた。
「いただきます」
 サバの味噌煮とサラダ、お味噌汁、卵焼き。
 懐かしい味に、なんだか泣きそうになった。
「幸も一緒に作ったのか?」
 父親の言葉に、私は頷いた。
「けっこう、料理がうまくなってたのよ」
 母親が嬉しそうに言った。
「母親になるんだもんな……母さんにいろいろ教えてもらいなさい」
「……うん」
 父親の言葉は、嬉しそうであり、さみしそうでもあった。

 出産は家のそばの産院ですることにした。
「幸の生まれた病院よ。縁があるのね」
 母親の言葉に私は頷いた。
「そうなんだ」
 母から紹介された産院は、古びているけれど清潔な印象だった。
「母さん、付き添いなんてしなくても大丈夫だよ」
「何言ってるの! 妊婦なんて何があるかわからないんだから……」
「……はーい」
「ところで子供の名前は決めてるの?」
「うん、大樹(たいじゅ)にしようと思ってる。大きな木みたいに、どっしりとした人にそだってほしいから」
「そうなのね」
 母親とそんなやり取りをしていると、名前が呼ばれた。
「沢田さん、沢田幸さん、一番の部屋にお入りください」
「はい」
 私は診察室に移動した。
「うん、順調ですね。二か月後の10日頃が出産予定日ですね」
「はい」

 時間がたつのは早かった。私はバイトをやめ、出産に備えた。

 予定日から二日たって、私はおなかが定期的に痛むのを感じた。
「母さん、おなかが痛い……」
「陣痛が来たわね。それじゃ、病院に行きましょう」
 私は病院に電話をしてから、父親の運転する車でそこに移動した。
 病院に着くと、すぐに診察室に通された。
「うん、子宮口も開いてきてるね。頑張ってね」
「はい」
 脂汗が出るほどの痛みが、波のように押し寄せる。
 一時間ほどたって、私は分娩室に入った。
「はい、いきんで!」
「んんっ!!」
 なんどか痛みの中でおなかに力をいれる。こんな苦しさは味わったことがなかった。
 苦しくて、もう死んでしまうんじゃないかと思いながらも、大樹のことを考えて心の中で、「頑張れ! 大樹!」と何度も叫んでいた。
 急に体が楽になった。
 次の瞬間、赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
「元気な男の子ですよ」
「……はい……」
 私の目の前には、真っ赤でしわだらけの小さな生き物がいた。
「……大樹?」
「ほわぁぁっ……おぎゃあぁ……」
 生まれたばかりの息子を、看護師さんが私の胸においてくれた。
 赤くしわだらけの小さな手が、私の指をにぎっている。
「大樹、がんばったね……」
 私は、涙が止まらなかった。

 父親の欄が空白の出生届を見て、心が痛んだ。この子は、大樹は、私が幸せにして見せると、私は誓った。
 五日間の入院期間を終えて家に帰った。
新しい戸籍を作って、私は母親になったんだと、実感した。私と大樹、二人だけの家族、と呟いたら聞いていた母親が怖い顔で言った。
「私と父さんもいれて、四人家族でしょう?」
「……うん」
 もうだれも、大樹の父親の話はしなかった。

 大樹が生まれて三か月がたった。

 私は母親に言われて久しぶりに美容院に行った。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、当店は初めてですか?」
「はい」
「私、本日担当させていただきます伊藤大夢(いとう ひろむ)と申します。今日はどんな感じにしますか?」
「えっと、ショートカットにしたくて」
「え? 背中まである綺麗なストレートなのに切っちゃっていいんですか?」
 伊藤さんは戸惑うような表情を浮かべた。
「はい。私、ついこの前、母親になったので……手入れが簡単なほうが良いと思って髪を切りに来たんです」
「そうなんですか!? お子さんが生まれたんですか!? おめでとうございます。お体、つらくないですか?」
 伊藤さんはにっこりと笑いながらも私の顔色をじっと見ている。若い男性なのに私の体を気遣ってくれたので、私はすこし驚いた。
「大丈夫です」
「それじゃあ、なるべくスタイリングとかしなくても大丈夫なように切りますね」
「おねがいします」
 シャキシャキと髪を切る音がする。
 今まで伸ばしていた、長い髪が床に散らばっていく。
 私は目をつむってその音を聞いていた。
 リズミカルな髪を切る音と、店内に流れるラジオの音のなか、私はうとうとと眠気に襲われた。……どれくらい時間がたったのだろうか。私はかるく肩を叩かれて目を覚ました。
「仕上がりはいかがでしょうか? 後ろも大丈夫ですか?」
 私は渡された手鏡を使って、うなじの見える頭の髪がいい感じに整っていることを確認した。
「良い感じです。ありがとうございます」
「良かったです」
 伊藤さんはほっとした顔で、私に微笑みかけた。
 会計を終わらせて、店を出ると伊藤さんが出口まで送ってくれた。
 私の姿が見えなくなるまで、伊藤さんは小さく手を振ってくれていた。
「良い人だけど、変な人だったな。伊藤さん」

 私はひさしぶりに、軽い気持ちで家に向かって歩き出した。

******

 大樹が生まれて六か月がたった。

 年度が変わった。
 私の実家の周辺は少子化が進んでいた。おかげで大樹を保育園に預けることができた。
 そして、私は復学した。
「それじゃ、気を付けて」
「うん、大樹をお願いね。行ってきます」
 実家から大学への通学時間は片道一時間半。一人暮らしの時は学校から歩いて15分のところに住んでいたから、これからは通学にずいぶん時間がとられるなと、私はため息をついた。
「せっかくだから、通学時間に英語でも勉強しようかな……」
 スマホで無料の英会話レッスンアプリを検索する。聞き流す英会話とか、聞いて覚える英単語とか、よさそうだなと思った。大樹と離れているなら、その時間を将来のために有効に使いたいと私は考えた。だって、いつかは一人で大樹を育てなければいけない日が来るのだから。

 久しぶりに行った学校で一番先にしたことは、軽音部に退部届を出すことだった。
「幸、サークルやめちゃうの? しばらく学校で見なかったけど何かあったの?」
「うん、ちょっとね……。これから忙しくなるから……」
 元同期のバンド仲間に挨拶をして部室を出る。
「やっぱ、カイトが原因かな?」
 ドア越しにそんな声が聞こえた。
 私はその声を無視して、授業に向かった。
 学校に通い始めて一か月。大樹も保育園に慣れてきたようだ。
保育園のお迎えは、母がしてくれている。大樹は初めのころは泣いていることが多かったけれど、最近は笑っていることがふえたと母が教えてくれた。
 私は学校が休校の時には、保育園を休ませて大樹と一緒に近所の公園や児童館に遊びに行っている。今のところ私にママ友というのはいないけれど、顔見知りのお母さんは何人かできた。時々、若いね、あなた何歳? と聞かれるけれど、まだ20歳になったばかりだということは言わず、あいまいに笑ってその質問には答えなかった。

 私はショートカットを維持していた。髪が長いころに比べて、シャンプーの時は格段に楽になっていたし、毎朝の身支度も髪にかける時間が短くてすむからありがたかった。
 その代わり、毎月美容院に行くことになった。
 指名料が惜しいので、いつも担当の美容師さんは指定しなかったけれど、伊藤さんが担当してくれることが多かった。
「幸さんの髪は綺麗ですね。サラサラで、つやがあります」
「……ありがとうございます」
 伊藤さんに髪を切られることがふえるたび、いつの間にかシングルマザーであることだとか、大学生であることだとか、自分のことを伊藤さんに話すようになっていた。
 伊藤さんは穏やかな表情で私の話を聞いてくれる。伊藤さんは時々、学校がんばってるんですね、とか子育て大変じゃないですか? とか心配そうな表情で話しかけてくれた。
「産みたくて産んだ子どもだから、大変でも頑張れます。可愛いし、ね。心配なのは、子どもがちゃんと幸せになってくれるように、私がちゃんと子育てできてるかってことくらいで……」
 それを聞いた伊藤さんは、笑って言った。
「幸さんなら、大丈夫ですよ。すごくしっかりしてるし」
「そうかなあ……?」
 ほぼ毎月、会話を重ねるたびに伊藤さんはさらに親身になって、私の話を聞いてくれるようになった。私も少しずつ、伊藤さんに興味を持った。
「ところで伊藤さんは、どうして美容師さんをしてるんですか?」
「え? 俺ですか? 俺は父親が美容師で、仕事してる姿がかっこよくて、それで美容師に憧れた感じです」
 私は伊藤さんに尋ねた。
「……伊藤さん、若いですよね?」
「これでも22歳なんですよ」
「え? 年上だったんですね、ごめんなさい」
 伊藤さんはクシャっと子どものように笑って言った。
「大夢(ひろと)ってよんでください。幸さん」
「……分かりました」
 大夢は少し嬉しそうに微笑んで、優しく丁寧に、私の髪をきれいなショートカットに仕上げた。

 大樹の検診も無事終わり、離乳食も順調に進んでいる。
 母も父も、もう大樹にメロメロだった。かくいう私も、大樹の一挙一動に右往左往している。沢田家の中心には大樹がいる。そんな生活に私たちは慣れてきた。
「本当に、かわいいわね、大樹ちゃん」
「うん」
「おろせなんて言った男の顔が見たいな……いや、見たら殴ってしまうだろうな」
「やめてよ父さん、大樹が怖がっちゃう」
 久しぶりにカイトのことを思い出して、私は顔をしかめた。
 テレビで、時々カイトのニューシングルのコマーシャルが流れると、私の表情がこわばる。
 母も父も、私の異変に気付いているのか、いないのかはわからない。
 そんな風に日々が穏やかに過ぎていた。
 
ある時、母がぽつりと言った。
「幸、大樹ちゃんの父親って、野村カイトって言ってたわよね」
 洗濯物をたたみながら、母が何気ない様子で私に尋ねた。
「……うん」
 私は急に汗ばんだ手を握りしめて、椅子に座ったまま母親の表情を覗き見ようとした。
 母親は私に背中を向けていたので、その表情は見えなかった。
「あの、テレビに出てるカイトって、野村カイトなの?」
 母親の声は穏やかだった。
「……うん、そう」
 私が答えると、母親は沈黙していた。時計の針の音がやけに大きく聞こえる。ちょっと間をおいて、母親が言った。
「……そうなのね、じゃあ、大樹ちゃん……男前になるわね」
「似るのは顔と声だけにして欲しいわ」
「……ふふっ」
 母親は洗濯物をたたみ終えると、二人分の紅茶を入れて、ダイニングキッチンの机の上に置いた。
「お茶にしましょうか」
「うん」
 私は母の入れた紅茶を飲んだ。
 それはいつもより少し、渋くて苦かった。
 
学校では、シングルマザーになったことは誰にも言わなかった。
 一部の教授は休学理由を知っていたけれど、とくにそれを口にすることはなかった。
 ただ一度、ゼミの教授がレポート提出の時に「お子さん、元気?」と聞いてきたので、私は教授に「はい」とだけ答えた。
 私は学校の同級生と一学年ずれたこともあって、一人の時間が増えた。
 孤立というほどではないが、クラスメートとは距離ができた。
 それでも私は学校が楽しかったし、授業を真剣に受けるようになった。
 大樹から離れていると不安でさみしかったけれど、学校で良い成績を取って良い会社に入らなければいけないと思うと、大学で過ごす時間が貴重なものに思えた。

 忙しい日々は駆け抜けるように過ぎていった。 
 そして、卒業が近づいてきた。

 毎月一回の美容院通いは続けている。
 就職が目前に迫ってきて、私は大夢につい質問してしまった。
「仕事、楽しいですか?」
「うーん、つらいこともありますけど、楽しいですよ。やりがいもありますし」
「やりがいですか?」
「はい、お客様が笑顔になったときとか、嬉しいです」
「そっか、やっぱり働いている人の言葉は違うなあ」
 私がそう言うと、大夢は照れくさそうに微笑んだ。
「幸さんは、仕事、どのへんで探すんですか?」
「うーん。この辺で働きたいと思ってるんだけど、募集が少ないんだよね」
 私は近所の会社の求人情報を探していることを大夢に言った。
「近所なら、これからもここに通ってくれますか?」
「多分」
 大夢が私の答えを聞いて、ほんのり頬を赤らめた。
 私はそれをみて、苦笑した。
 恋愛は、もうこりごりだ。

 私は運よく、実家から二駅先のちいさな会社に就職が決まった。
 仕事が決まったことを、美容院で大夢に告げると、大夢は自分のことのように喜んでくれた。
「あの、今度、よかったら食事でも行きませんか?」
「え?」
「これ、俺の連絡先です」
 大夢が胸ポケットから小さな紙きれを取り出して私に渡した。
「私、シングルマザーでお金ないのよ?」
「俺、おごりますから。就職祝いってことで」
 私はあいまいに笑ってから、紙きれをパンツのポケットにしまった。
「あの、大夢……あなたのことは仕事に誇りを持って働いてる姿を見てるから、尊敬してるけど……」
「ああ、あの、変な気はないんです。ただ、一度ゆっくり話をしてみたいなと思って」
 大夢は失敗したかな、というような微妙な表情を浮かべて、鏡越しの私の目をじっと見つめていた。
 私は、ちょっと深呼吸をしてから、言った。
「そうですね、仕事の話とか、もっと聞かせてもらうのも良いですね」
「……良かったあ」
 大夢はほっとした顔で、私に微笑んだ。

 その時、店内にカイトの歌が流れた。
「この歌手、最近人気ですよね。知ってます?」
「ええ、よく知ってます……」
 人懐こい笑顔で無邪気に笑う大夢に、私はぎこちない笑顔で答えた。次の恋に進むには、まだ早い。私はポケットの上から大夢のくれた連絡先をしずかに撫でた。
 
 それでも大夢は、大樹のいい友達になってくれるかもしれない。

 鏡の中の私は、少し大人びた表情で、口の端だけ笑っていた。

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