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浜松へ10歳娘とリトリート旅(2023)

 2023年、年始は10歳の娘と浜松へのリトリート旅からスタートした。

リトリート(英語: Retreat)、宗教上の理由で、忙しい日常の生活から離れて、ひとり或いはグループで深く内省する活動を意味してきた。

いわゆる世間一般のリトリートと言われるものはこちらをご参考に。

wikipediaなど

 そして今回のリトリートは(企画の方の文章から抜粋)
・・内側に私を見つめ、同時に外側の私たち、土地、自然、宇宙を感じる。
・・自己の内省、創発する対話、土地の魅力を活かしたアクティビティや食事などを共に時を過ごしながら場を共有していく。

 今回cift内でのお誘いがあり、できれば対話も含めて、10歳の娘と一緒に参加したいと申し入れた。(※ciftについては最後に記載)

私の中での参加の動機は、
・娘に様々な価値観の人と過ごす時間を作りたい。
・子離れの始まり。
・親子共に自分と向き合う時間。
・やや反抗期に入った娘の建前でなく本音を知りたい(後に頭ではなく心で感じることとリンクする)
・美味しいもの食べて、母娘旅を楽しみたい etc..

 企画の方は、こちらの意図も聞いて下さった上で、娘と参加することを快く承諾いただいた。
恐らく先方にとってもチャレンジングだったとは思うけれども、受け入れてくれたことには本当に感謝をしている。

実際のリトリートでは、ざっくりとこんな時間を過ごした。
地の神様へご挨拶
地元のお風呂や建物
地の食材で料理
対話
地元のお散歩…

まずは地の神様(秋葉山神社の火之迦具土大神)へご挨拶
本宮まで383段は娘の実測値☺️

 実際には、娘の「対話」への参加は条件によって(22時過ぎや高温サウナ内での場合など)スキップしたり、また他のことをしたい時は正直に伝える様に話し、それを見守った。
全員で対話している中で「ドラえもん見てきていいですか」と聞くのは、実はなかなかに勇気があることだなぁと見ていて思ったが、思えばそれこそが頭ではなく心で感じたことで行動していると、後になって気づいた。

地の食材は命のエネルギーに溢れていました。内臓も喜んでる!

 以下、私自身の気づきと娘への気づきについて。
ちなみに実際の対話の場では、参加メンバーそれぞれに気づきや出来事があり、いくつかは自分ごととして捉えたこともあった。まさにリトリートの一つの目的であった「私」が「私たち」になっていく瞬間。

 多くの人が参加している中で、娘は、思ったよりもまだまだ母である「私」を直接求めていた。私自身は最近娘との時間はある程度足りていると思っていたけど(以前はもっと少なかった)、私と時間やできごとを共有していくことを欲していた様に感じた。そこに気づいてからは、できるだけ多くの時間を共有し、今なお進行形で近い距離で過ごしている(帰宅後の家族もそう感じている模様)。特に違和感もないので、無理に子離れを意識し過ぎていたのかなと思った。

参加者がどことなく似てくる瞬間もある。兄弟み。

 また別の時に、娘がホームシアターで一人ドラえもんをみていて、同じ時間に私がサウナでほかの人と過ごしていたことを「娘を放置している」様に見えて心配して声をかけてくれる参加者の方がいた。まずはそういうことを正直に話してくれたことが嬉しかった。逆の立場だったら思ったまま言えてなかったと思う(実際に声をかけずに見過ごした場面もあった)。改めて気づいたことを言葉にする大切さも、声をかけてくれた彼女から学んだ。

 予想に反し娘にとっては、日常の多くが、元から頭ではなく心で考えて行動をしていて、逆に予想通り、即効性のある満足は(よくこう例えるのだが)「人生語る人」よりも「人生ゲームを一緒にやってくれる人」であった。そのため、帰路ではより娘と多く会話したり、時間を共有した方のエピソードが多かった。
でも今、東京へ戻り、ふとしたタイミングで対話をしたことの話がぽつぽつ出ているのを聞くと、先に書いた「人生語る人」の言葉は点滴の様に沁みていっているのだと感じた。
どちらも娘にとって必要な人たちと思う。

このパートナーたちも旅に必要なエレメントであった。娘曰く「コミュ障から守ってくれた。」

 母娘参加での最大のハイライトは、参加者の方からの「私が娘を呼ぶ声でちょっとザワザワすることがある」というコメント。
聞いた瞬間「やっぱり!」と感じ、思い当たる節だらけに感じた。
 普段から当たり前の様に、娘の名前を呼ぶ時に
「早くしなさい」
「すぐやりなさい」などのネガティブな感情を込めてしまっており、かなり尖ってキツイ音になっていた。
想いを込めてつけた娘の名前なのに、自ら潰してしまう様な行為だなと大いに反省をした。と、同時に自分も親に怒られまくりの頃、やっぱり自分の名前が怖かった時期があったけど同じことだったのかなと、一つ過去を乗り越えることもできた。
ここでも、気づきをくれたメンバーに感謝。

 今回のリトリートの参加のきっかけの理由の多くを「娘にとって〜」を接頭につけて話をしていた。
もちろんそこは嘘ではないけれど、おおよそは私にとって必要だからであった。はじめは参加が何となく照れ臭くて子どもを言い訳にしていたかも。。と今になって思う。

思い出はこの旅のキーワードを引き出す神様カード
左が娘のカード、真ん中が私、右は娘にとってお姉ちゃん的であった参加者さんのカード

 一旦娘とのエピソードからは離れ、今回の私の中での対話の最大の収穫は、父性と母性について話を深められたこと。

父性と母性とは(複数の見解があるなかでの一例です。)

 対話の場で自己受容(安心感)は母性につながり、自己変容(緊張感)は父性につながる。
そして緊張は安心の上に成り立ち、逆はあり得ないという話があった。
 一般的ジェンダーとしてだけの父、母ではなく、思考としての父性、母性をベースに当てはめて考えると、私が今抱えている多くの人的課題が解決に向かうことができそうという感覚を掴めた。(例えば、両者のバランスとか、人間関係の形成やお互いの立ち位置など)
 特に私は今、家族をテーマに仕事や生き方、実家族についても未来への姿を考えているので、ある意味家族としての例えは灯台下暗し的な気づきでもあった。
そのため私の周りの皆様、しばらく父性と母性をベースに諸々話すことが増えると思われます、、ご了承いただけますと幸いです、笑。

 総じてリトリート初体験は、
地の食を味わい、地の神様を訪ね、頭ではなく心で捉え、対話を繰り返し、娘と共に心地よい時間軸を取り戻していく働きであった。
息子とも人生のどこかで経験したいと思う。

浜名湖の牡蠣♡石巻出身の参加者さんの殻向きがお見事でした!

最後に・・・
文中に出てきたciftとは、
今回滞在させていただいた浜松、阿多古屋さん(お部屋も貸切サウナもオーナーさんも最高♡)

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P.S おまけ的にトピック

音と神様について。
 私は気づいた頃から絶対音感がある。もしかしたらそれは大体音感かもしれないが、ともかく生活音を音階で辿る癖がある。普段は生活音の不協和音が耐えられなくなるのであまり意識を持たない様にしている。
 でも、今回あるきっかけがあって人々の声が音階になり、それが時間の経過で音階があがっていく様な状態を感じた。
 次の日も、対話前のチーンという楽器の音も音階に感じて「うーん..」と一瞬なったのだが、時間の経過につれて、その音階で辿る癖がそこまで不思議と不快ではなかった。
そのことが自分の中では、今回旅先が浜松(ヤマハやカワイの本社がある楽器の街)だから、音の神様が現れて、音から逃げがちだった私と対話させてくれたのかも…と考え、その思考で本件はとてもスッキリした。

このレトロなピアノとは浜松駅前の楽器博物館で出会いました
JR浜松駅構内のストリートピアノ。
娘とめぐるストリートピアノはこれで5ヶ所目。

 今までも神様については、自分の中で信じるも信じないもなく、ただ
八百万の神という日本的な考え方は好きでいた。今回の音の神様の件で、時に自分の中でそう納める(神様の存在)とスッキリすることも学んだ。妖怪ウォッチで言う妖怪のせい??そう言えば以前、児童精神の先生から、戦地の子どもたちは気持ちを妖精に置きかえることで傷つきを癒しているという話も聞いたことがある。関連がありそうななさそうな..

そんな神様と自分の意識について、最近、医学的に児童の心と向き合っていきたいという、朧げながら漂わせている自分の思考ともリンクして少しだけその解像度があがった感じもする、、、けれどまだ淡いのでこれはひとりごと。

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