【要約とメモ】渡辺文「芸術人類学のために」『人文学報』第97号(2008年8月)

1 はじめに
2 芸術論の変遷
3 芸術人類学の展開
 3-1 文化相対主義
  3-2 本質主義
  3-3 機能主義
  3-4 マテリアルカルチャー論
4 考察
 4-1 芸術人類学批評
 4-2 芸術人類学の展望
5 おわりに

(1)要約

本稿は、「芸術」の議論が人類学にとてどのような点において正面から論じ難い領域であり続けたかを理解し、今「芸術人類学」を低所するための基盤を作ることを目指すものである。

まず本稿において著者は、木村重信やマックス・ウェーバー、高梨秀爾の理解を援用し、「芸術」という概念が西洋で形成され、ルネサンス以降天才性を含んだ個人が作り出す「美」の表現であることを明らかにする。人間中心的で、個性を崇拝する純粋芸術は19世紀後半から20世紀前半において顕著に現れるが、同様に20世紀に入ると「未開芸術」への影響をアーティストが受けるようなるプリミティズムの影響が大きくなる。
このプリミティズムの動向によって、芸術における美の機能が大きく促されることとなる。そこで芸術論は二つの方向へと転換へ図ることに着目する。一つ目は、芸術をコミュニケーションと捉える立場。二つ目は芸術作品をモノとしてさまざまな社会との関係において分析しようとしう構築主義的な見方への転換である。

以上の芸術の概念の変遷を整理した上で、芸術をどのように人類学が捉えてきたかその変遷を年代別に四つの区分に分けて説明している。
(1) 文化相対主義
→F・ボアズ『Primitive Art』(1991)は「未開芸術」が意識的に取り上げた最初の研究と言われる。ボアズは本書において、芸術効果の源は二つ「形態」、「観念」であると示す。民族的な芸術作品に見出される、対称性やリズム、強調性に着目し、それらの象徴的意味を考察している。「彼は芸術に付随する歓喜が本質的に、人間の形態に対する反応に起因するするとし、北米インディアンの賛美性は、特定の形態を完成させる際の技術の修練によって喚起されると結論とした」(p128)ボアズの形態を芸術の根源とみなすような結論は、目的(作る意思)と技術を切り離している思想であるそれに対する批判も多い。例えば木村重信は「未開芸術」という言葉を嫌い「民族芸術」という分析概念を提案した。そして、それらは作品と享受者の関係に重点があるという主張をしている。また、クリフォード・ギアーツは記号学的なアプローチから、バリの闘鶏の分析をし、そこには自己を闘鶏に投影する主観の展開がおき、そこから感性を創造し、維持するために実在する要因とし、意味と形態論の二元論に対して警告を鳴らした。
(2) 本質主義
→文化相対主義に対して、この芸術概念の捉え方そのものは近代西洋という限られた主観でしかないという理由で暴力的、かつ批判的であると捉えられた。そこで、美的な感興を喚起するあらゆるものを「芸術」と捉え、同一の価値観を持って分析を行う動向が現れた。とりわけ顕著に現れたは『20世紀美術におけるプリミティヴィズム展:「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性』(1984)である。ここでは、キュビズムやシュルレアリスム的と呼ばれる芸術作品と、とりわけオセアニアとアフリカより収集された部族美術を同じ空間で提示することによって西洋美術と未開芸術を同列に扱い、未開芸術(部族的なるもの)を野蛮で未成熟なモノとして捉える西洋中心主義的な視線を払拭する手段としての展示であった。著者はこの展示の試みから、2点の特徴を本質主義的であると捉えている。一つは、部族的なるものの作品には、呪術的審美性が宿っている点。二つ目は、芸術を構成する普遍的な価値判断領域として、審美性が残っているという点である。この二点から共に芸術の源は、宗教的な領域にあり、芸術そのものを通文化的に捉える視点である。しかしながら「芸術=審美性=通文化的」に捉えようという姿勢は、人類学におては主流ではない。審美性そのものが18世紀の西洋で確立した概念でもあるからだ。美なるものは、物事と物事の差異化によって見出され 、価値判断可能にする特徴を持つ点において、通文化的ではないという意見もある。
(3) 構築主義
構築主義とは、「美」という概念から距離をもち芸術を「文化システム」として批判し、非西洋芸術の歴史化という作業を志向する。これまでの流れを踏まえて芸術を「美」という観点から捉えた場合、非西洋における芸術は決して自律的なものとして把握することはできないという(アパデュライ,2004)指摘もあり、そのような文化的差異に着目するのではない動向が顕著になってきた。
ジェイムズ・クリフォードは近代西洋を舞台に、収集、分類という作業を通して、エキゾチックなモノがコンテクスト化されて価値を付与された諸工程を考察し、これらを可能にした西洋的な態度のシステムを「芸術=文化システム」と呼び、西洋の芸術を再構築しようと試みた。(文化システム…「真正」(芸術オリジナルor文化的な器物化)or「非真正」(芸術に近い=レディメイド・反芸術or文化的器物=ツーリスト・アート、商品、実用品))彼によれば、文化と芸術は、同等のものであるとし、非西洋におけるさまざまな芸術を、当該システムとの関係に着目しながら、歴史化するような研究は脚光を浴びた。
この流れを受けて、ジョージ・マーカスとフレッド・マイヤースはアート・ワールドを「文化的価値に関する言説が生産させる最も重要なアリーナ」であり、芸術を「さい、アイデンティティ、文化的価値が生産され争われるスペース」である捉え、芸術学と人類学の関係の刷新を試みため、アートワールドを相対化することを試みた。
また、古谷嘉章における芸術実践を、文化的差異が生まれるようなコンタクト・ゾーンとして捉える。文化的差異が、西洋近代の言説の内部で理解=消化されるモノとみなすのではなく「挑戦する差異」であるという点に着目する。
最後に、著者はニコラス・トーマスの議論を紹介する。彼はオセアニアにおける芸術の歴史家をフィールドワークにおいて試みている。彼によればオセアニア芸術においては、表象representationというよりは「現前presentation」であるという特徴を持つという。ここでは民族間のコミュニケーションが強い意味を持つとして、それらは保存されるのではく、忘却や破壊の行為に重点が置かれる。また、ニュージーランドなどにおける造形芸術作品は、西洋芸術の影響が大きく西洋に向けて商業化されている一面も見られる。このような芸術の側面から、芸術が目的達成の手段であると同時に文化的な実践であることを主張する。
(4)マテリアル・カルチャー論
→人類学における芸術はさまざまな問題がつきまとうがゆえに、事物そのものの文化や社会にどのように関わっているか分析するマテリアル・カルチャー論がある。この論理によって、芸術を社会的相互行為を媒介する形態として捉えるのである。これまで意思をもった人間の道具にすぎないとされるものに対して、「エージェンシー」(作用)を見出すという一般的な傾向はあるものの、非常に幅広く議論は展開されている。著者は、芸術における問題としてマテリアル・カルチャー論として、アルフレッド・ジェルの芸術論を引用する。ジェルは、現在の芸術学が「美」にとらわれていることを指摘し、芸術が審美性から訣別し、「方法的世俗主義」を提唱している(1992)ジェルは、作品における魔力的効果は、制作の段階によって作られるモノであり、それは社会的行為によって形成されるという捉え方へ転換する。また彼は芸術の力は「美か否か」ではなく、その効果の大きさによって判断されるべきであるという「インデックス」として捉える。インデックスによって、他者の意図や能力を推理できるような存在物としての芸術作品を推量することができ、エージェンシーを含む。また芸術的状況におけるコミュニケーションは、アブダンションに基づモノであるとしている。ジェルは、芸術品と言われるものを人工品という地平へと置き直し、これまでの芸術観は、個人の創造性や技という神格化された実態にその価値を集約してきたことへのオルタナティヴを提示している。(pp138-139)

著者の推測によれば、四つのカテゴリーのうち、(1)においては非西洋カテゴリーの肯定があり、(2)において非西洋カテゴリーは一度否定され、(3)において非西洋カテゴリーは再度歴史化されることによって肯定されると分析している。つまり芸術として人類学が扱うには、西洋芸術という権力をどのように扱えばいいのかという問題に常に集約されるのである。著者は、「芸術」という概念を非西洋と西洋という二分化された概念と認識されていることに対して懐疑的な思いを示しながら、芸術という用語を引き継ぎながら人類学的議論を組み立てたい意思を強く述べた上で、ニコラストーマスの芸術実践、アルフレッドジェルのエージェンシーの思想に可能性を感じることを示す。


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