私の中の「だって」「でも」
私は美術作品を制作するアーティストである。
最近、論文や作品制作において、自分自身の視点が失われていることに気づいた。
この記事では問題を解決するために、自分の作品や考え方を見つめ直している。
問題の背景
ここ数年、論文を書くために、「先生への正解の論文の書き方」を弄って提出していたように思う。
これを書いても「これは論文ではない」
あれを書いても「何が言いたいかわからない」
といった感じである。
その結果、自分の意図や表現が二の次になり、「これは論文ではない」「何が言いたいかわからない」といった批判を受けることが多くなった。この問題は作品制作にも影響を及ぼしており、「どこかに正解を求める」姿勢が見られる。
自分のための論文が、いつしか博士号を取るために「先生へのための論文」になっていたことに危機感を覚えた。今は、少しずつ自分を軸にしたアプローチに変化できているのだが、それと共に作品にも「どこかに正解を求めて作っているのではないか」と感じるようになった。
その過程で気付いたのは、自分の中であらゆる作品に対して「否定的に捉える眼差し」があることに気づいた。
物事を否定的に捉える眼差し
私は他人の作品(友人でも著名なアーティストでも)に対して、いつも否定的な視点を持って作品を見ている。
例えば、ある作品を見て、
「でも、この作品、美術史を無視している」
「でも、この作品、自分が作りたくて作っているようなマスター××××××じゃないか」
「この人の作品、面白いけど、時代に受け入れるために作っているんじゃないか」
「この人のやっていることは『新しい』けれど、そのうち廃れるだろう」
「この子の作品は面白いけど、まだまだ迷いがあるからこの先わからない」
といった具合に。
以前から、そのように感じていることに気づいていた。しかし、これが単なる批判力ではなく「私自身の作品に対する視点の問題なのでは?」と思うようになった。
その否定の眼差しは、自分に向けられている
実際、自分自身の作品は、様々な思想の上で成り立っている。
私は多くの影響を受け、「自分の好きな作品」を自分の意思で作っているつもりだった。しかし、実は「否定的な眼差し」を意識して、そのように思われたくないという意識も持って作っていることに気付いた。
例えば、
「私の作品、美術史を無視している?」
=美術史への位置付けと美術作品なのか
「私の作品、自分が作りたくて作っているようなマスター××××××じゃないか」
=何のための作品なのかという混乱
「私の作品、この時代に受け入れるために作っているんじゃないか?」
=本当に自分が作りたい作品なのかという根本的な疑問
「私のやっていることは『新しい』けれど、そのうち廃れるから、普遍的な作品を作らなきゃ」
=時代に流されて作品を作ることのへの不安
「今の作品は面白いけど、まだまだ迷いがあるからこの先わからない」
=漠然とした将来への不安
こうした不安や疑問や恐れを抱くこと自体は、おそらく悪いことではなく当たり前の自分の弱さでもある。
また、「美術史への位置付け」というテーマは、私の中で今博論の中で取り組んでいることだから、そういった弱さという課題に向き合っている。
このような否定的な視点を持ち続けながらも、10年近く作品を作ってきたことは自分なりにすごいことだと思う。しかし、そろそろ自分の作品に対する否定的な眼差しを少しでも取り除き、より自由にのびのびと表現する必要があると感じている。なぜなら、こうした迷いの中で作る作品は本当の意味で鑑賞者に混乱を招き、鑑賞者と作品(私)の本質的なところと共鳴できないからである。
結果として、混乱と共にできた作品でも発表することになる。そこで鑑賞者との交流が起こる。しかし、私はうまく説明できなかったり、鑑賞者に感想を委ねてしまったりしている。そうした作品を介したコミュニケーションの差異に私は深く傷ついてきたように感じる。それは自分の中の、「否定的な眼差し」が生んだものだからである。
鑑賞者もまた、自分の写し鏡のように混乱している。
だから私は、この混乱をあらため否定する眼差しを極力シンプルなものに抑え自分の作品で乗り越えようとしている要素に全力投球することが、これまでの何か否定的に捉えようとしてしまう「自身のない自分」やもどかしい気持ち、「自由にのびのびと」本来表現したい自分を救い、乗り越える手段であると思うからだ。
否定的な眼差しを持つ、原因を探る
ここで、私が「自由にのびのびと」作れない要因を探ってみる。
冒頭で述べたように「どこか」に対して正解を作ろうとすることが、作品制作にも影響を与えている。
18歳から取り組んだ作品制作では、私は「工芸」というジャンルから学んだ。
この「工芸」は、美術界の中で、ちょっと異質な存在だったりする。まあ、絵画や彫刻と比べて、日用品も含むこともあるし、装飾芸術とか応用美術とか呼ばれ、とにかく、格が低く見なされがちである。
学部時代にはこの「工芸」というジャンルに真剣に考え、「焼き物に置いて作品を作るとは…」ということを考えすぎてしまい、結果的に満足のいく作品が作れないということは少なくなかった。
また、東京の大学に院試を控えて、受かりたい思いもあり必死だった。
この葛藤は、大学院時代があり、仕事しながら現在の大学で博士号とを取得するための基礎となっているので一概に否定はできない。
しかし、この葛藤の中の制作は自分にとって「自由にのびのびと」とは違っている気がしていた。
「自由にのびのびと」と美術業界や先生に対する「他者への意識」との間で、さまざまな制作を試みてきた。
表現のジャンルも広がり、「装飾」という大事なテーマも軸に持っている。
しかし、この不安が、今の私の制作に良くない影響を与えているように思う。
理想的な作品像:内容として
これまでの経緯を踏まえて、自分の理想的な作品像について改めて考えてみたい。それには、作品の持つ、コンセプトなどの内容と視覚的な造形性などの形式とによって私はそれぞれ異なる問題意識があるようだ。まずは内容について書く。
これまでの経緯を踏まえると、「誰かのために作ってしまう」という不安定な自分と、「美術史としての問題」を意識することは作品の内容として異なるものです。美術の専門家に評価したいから「美術史としてん問題」を扱っているのではない。これは私の問題であり、能動的にもっと取り組むべき問題である。
しかし、私はどこかでそういった自分をあまりみてこなかったように思う。あるいはそうした思いから作る作品をどこか「流行り物」として、否定的に捉えていた。本当はやりたいはずなのに。なぜか。こうした思いから生まれる作品が、現代の流行だから。捻くれ者はますます捻くれ、混乱していた。
これを肯定的に捉えることは今、大事である。
理想的な作品像:外見・造形的な感覚
同時に、「個人的に良い」と思える造形的な美学や表現方法に対しても、私は否定的でネガティブな思いを抱いてた。
例えば、わかりやすい芸術。地域芸術祭でみられるようなダイナミックなインスタレーションやエンタメ感のある作品など。そういった作品を見ると、「技術がない、単純、誰でもできる、内容がない、ただ視覚に面白いだけ」と大衆に受けのいいような作品に否定的な感覚を持っていた。
それを踏まえて、私は私なりのオリジナルな技巧に走り、独自の造形的にこだわったような作品を制作していたのかもしれない。しかし、私が造形的に難しいことに挑戦するたびに、「自由にのびのびと」した表現からずれていく感覚があった。
このずれを訂正するには、自分の中で「分かる」感覚を取り入れ作品を調整する必要があったのかもしれない。
そこで、私が否定的に感じてきた大衆受けできるような作品にも、自分が取り入れられる要素はあったのかもしれない。
いつも、実験段階で終わってしまっていた。
作品の内容を「誰か」のためではなく、自分が取り組むべき問題として真っ向に対峙し、その中で「わかる」かたちとして「自由にのびのび」と制作すべきだろう。
肩肘張らずに。
それで良いのかもしれない。
結論:癒すために作るということ
否定的な眼差しを向けた作品は、実は自分の中で肯定したい要素であったのかもしれない。いわゆる、ひがみ?
それを受け入れられなかったのは、これを取り入れたら「誰か」に認められないのではないか、という不安な気持ちからだったのかもしれない。
少し前に違う先生から「あなたは筋トレが終わってこれから試合に挑まななきゃ。いつまでも先行研究読むだけではなく、言いたいことを主張しなさい」と。
その時は、純粋に励みになったと同時に、「まだまだだ」と思う自分もいた。
今は、後者の「まだまだだ」と思ってしまう自分から自律する時のように思える。だから、小さなことから一つ一つ答えを出して、論文を作品も作っていく。
「私の作品、美術史を無視している?」
=今取り組んでいるからOK
「私の作品、自分が作りたくて作っているようなマスター××××××じゃないか」
=今美術史の問題として取り組んでいるからOK
「私の作品、この時代に受け入れるために作っているんじゃないか?」
=ここは今向き合ったからOK「自由にのびのびと」
否定的なフィルターを取り除いて、「いいな」と思ったものを、それがエンタメっぽいと思われても取り入れていくこと
これは重要であると感じる
「私のやっていることは『新しい』けれど、そのうち廃れるから、普遍的な作品を作らなきゃ」
=自分の軸で作品を作っていれば後悔はないはず。他者にOKもらう姿勢をなくしていく。
「今の作品は面白いけど、まだまだ迷いがあるからこの先わからない」
=上に同じ
答えは簡単で、なんでも自分の軸で選んでいけば良いのである。
また、否定的に捉える癖を外すことで、ちょっと躊躇していた表現もこれから取り入れられることになると感じ始めている。
そこには、『他者と共感したい』という私の夢がある。しかし、『他者に認められたい』にならないよう、この夢は自分の軸をしっかり保って、作品として提示することが大事だ。
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