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本当に生きた日


毎日朝起きて、ご飯を食べて、活動してねむって、また翌朝起きて。

そのうちいつか絶対しぬわけで。なんかさあ毎日毎日これってなにをしてるんやろう、と定期的にふと思う。


日常の積み重ねの先に未来があって、日々いまこの瞬間が続いたこの一瞬のすべてがひとつの「人生」となり、人間の一生はいつか必ず終わりを迎えて。

草木も動物も自然も巡って時代も巡り続けて、自分の人生は長いながい歴史の中のたったほんの一瞬で、いつか終わりを迎えても世界は、日常は、何事もなかったかのように続いていく。

当たり前のような顔して日々生活してるけどさ、よく考えたらこの生命の巡りって、一体なんなんやろう。



なんかたまに全部がこわくなる。


生きる、ってなに。とふと思うけど、忙しい日常生活に戻ればふと思ったことも忘れてまた朝起きて活動してねむってを日々繰り返す。 


短い生涯、とてもとても短い生涯
60年か、70年の

お百姓はどれだけの田植えをするのだろう。
コックはパイをどれくらい焼くのだろう。
教師は同じことをどれくらいしゃべるのだろう。

子供達は地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつめこまれる。

それから品種の改良や
りふじんな権力との闘いや
不正な裁判の攻撃や
泣きたいような雑用や
ばかな戦争の後始末をして
研究や精進や結婚などがあって
小さな赤ん坊が生まれたりすると
考えたり、もっと違った自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品となってしまう。

世界に別れを告げる日
人は一生をふりかえって
自分が本当に生きた日が
あまりにも少なかったことに驚くであろう。

指折り数えるほどしかない
その日々のなかのひとつには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう。

<本当に生きた日>は人によって
たしかに違う。

ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ。

ぎらりと光るダイヤのような日 茨木のり子

ぎらりと光るダイヤのような日。

自分の人生の中で「本当に生きた」と思える日ってどれくらいあったかな。この先どれくらいの日を、本当に生きた日にできるかな。



命を授かってこの世に生まれて、それが尽きるまでの生涯。長いようであっという間に終わってしまいそうな短い短い人生。

せっかく生まれたのなら、自分はどんなことが好きでなにが嬉しくてなにを大切にしたくてどんな日をぎらりと光るダイヤの日だと感じるのか。ひとつひとつ味わいながら、少しずつわかりながら過ごしていきたいな、と思う。


いま29歳。この先も生活はつづく。



生きるってなに、の答えはまだわからんけど。

いつか、この世に別れを告げる日に。一生をふりかえって「本当に生きた」と思える日が、一日でも多く感じられるような生き方で在りたいなと思った。






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