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『潮が舞い子が舞い』は変わらなくない日常を描く

この作品の特徴は、何よりもまず、登場人物の多さにある。

1巻の時点で、同じクラスにおける20名ほどの人物が登場するのだが、2巻ではさらに、おそらくクラスの全メンバーである36名が、それぞれに異なる顔と名前とキャラクターを与えられて、作品に登場するのである。
これだけ多くのキャラクターが矢継ぎ早に登場すれば、それぞれの顔と名前など、次から次へと忘れてしまいそうなものであるが、きっと、ほとんどの読者はそうならないで済む。
なぜかといえば、それは、この作品の登場人物が、巧みにグループ化されているからだ。

たとえば、水木・火川・風越・土上という登場人物は、4人で「能天気男子グループ」を構成していて、基本的にはこのメンバーがセットで会話を展開する。
他にも同じように、黒羽根・白樺・赤桐・黄金井は「ヤンキー男子グループ」、柿境・枇杷谷・柚下は「オタク系女子グループ」というように、いずれも登場人物がグループごとにセットで扱われるため、読み手はメンバーの役割や個性などを、少ない機会で容易に把握することができるのである。

ところで、この社会にある教室という空間は、もうずっと長いあいだ、40人近い学生をその内側に閉じ込めつづけている。そこでは、いわゆる「いつメン(いつものメンバー)」なんていうものがいつのまにか生成され、その空間のそれぞれにおいて、構成員が固定された役割をなぞりつづけることによって、変わることのない日常が営まれつづけている。
こうした高校生の日常を、『潮舞い』はあざやかに切り取っていると言えるだろう。
「能天気男子グループ」や「オタク女子グループ」、「真面目系勉強男子グループ」が、それぞれにとりとめのないやりとりを繰り広げるとき、それを読む私たちは、そこで展開される会話の内容がどんなに荒唐無稽であっても、その関係性にリアリティを感じずにはいられないのである。

ただし、こうした「いつメン」のコミュニケーションは、ともすれば「閉塞感」という負のイメージとともに語られがちである。
というのも、「いつメン」同士の集まる空間は、変わることのない約束された振る舞いがつづくという意味においては、たしかに落ち着くことのできる安心空間ではあるが、他方で、変化も成長も感動も興奮もないという意味においては、生きた心地の感じられない地獄のような空間でもあるからだ。

しかし、『潮舞い』においては、こうした閉塞を感じることはほとんどない。

なぜかといえば、それはきっと、この作品が「いつメン」によるコミュニケーションだけではなく、「いつメン」グループ同士の交流や、「いつメン」の中に「外メン(外からやってきたメンバー)」が突入していくさまなどをも、彩り豊かに描いているからだろう。

グループ内の関係性は変わることがないし、変わる必要もない。
しかし、世界はその外側にも広がっていて、誰もがその外側と無関係ではいられないから、たとえば何かのきっかけで、クラスメイトの呼び方が、ある日をさかいに変わることもある。
異なるグループに飛び込んでみれば、そこには「一筋縄ではいかない」関係が広がっていると、分かることもある。
ひとたび異性と触れあえば、そこには奇跡の輝きが、不意に生じることもある。

1、2巻までは、なんとなく「各グループとその構成員を紹介していく」という側面が強く、それはそれで面白かったのだけれど、3、4巻と話数を重ねるにつれ、徐々にグループを越えたやりとりが発生し、互いの関係性にも揺らぎが生じてきていて、とにかくこれが猛烈に心をゆさぶる。

この作品はあくまで日常を描くものであるし、その日常は「いつメン」のコミュニケーションによって営まれることがほとんどであるから、登場人物たちのあいだに大きな成長や変化が起こることはない。
しかしながら、「いつメン」以外も同じ空間にいて、それぞれに影響を及ぼしあっているからには、小さな変化はいくつも起こる。
それを見守るのがこのうえなく楽しくて、あまりにもいとおしいのである。

日常を描く漫画には成長が描けない、なんて、誰が言ったのだろう。

高校生のころの私は、どうして、日常に生まれる小さな変化を、見逃しつづけてしまったのだろう。

『潮舞い』の描く日常では、小さく、そしてかけがえのない変化が、いくつも生まれ、育まれている。
今度こそ見逃さないように、私はこの作品をくりかえし読み、いつくしむ。

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