『響』の主人公は悟空で、平手友梨奈がベジータである理由

『響』の評価は分かれている

 漫画『響』は、賛否両論、毀誉褒貶ある不思議な作品である。
 マンガ大賞2017で大賞を受賞し、翌年には平手友梨奈主演で実写映画化されたことからも分かるとおり、この作品が、多くの読者から支持を受けた大ヒット漫画であることは論を待たない。しかしながら、この作品に対する世間の評価は必ずしも高いものばかりではなく、例えばAmazonを開けばそこには☆1レビューが並んでいて、「好き嫌いが分かれる」「ダメですね」などと書かれていたりする。
 好かれるけれども、嫌われる。ならば、『響』とは一体どのような漫画なのか。

天才の身勝手が許される物語

 レビューを読むに、『響』を好きになれない人の多くは、主人公である鮎喰響の、過激で身勝手な振る舞いに嫌悪感を抱いているようである。
 事実、響は、少し議論が盛り上がっただけで目の前の本棚を倒し、気に入らなければヤンキーの指の骨を折ることもいとわず、文学賞の授賞式では無防備な作家の後頭部をパイプ椅子で全力殴打する。
 こうした無茶な振る舞いはすべて、自身の語る通り、とにかく「自分の感性に従って」生きていることの証左なのだろうが、そうした無茶が許されるのは彼女が天才だからであり、その天才的な感性から生み出される作品の力と、その圧倒的な作品力を背景とした言葉の説得力によって、あらゆる人間を感服させることができるからである。
 ここで気をつけたいのは、あらゆる天才が、常に「自分の感性に従って」生きているわけではないという点だ。サッカー界には久保建英、将棋界には藤井聡太など、現実の世界にも漫画のような天才は時折あらわれるが、たとえば藤井プロが一般人を将棋盤で殴打したなどという話は聞いたことがないし、そもそも公衆の面前で人をパイプ椅子で殴打すれば、本来であればその場で拘束・逮捕しなければならない傷害事件である(最悪、殺人事件にもなり得る)。
 これが結局なんとなく許され、その後も響が同級生から大臣にまで暴力を振るい続けられるのも、ひとえに彼女が天才だからであり、自身の小説を読ませてしまいさえすれば、その才能でどんな相手も黙らせることができるからなのである。

主人公以外が成長していく物語

 ただし、以上のことから『響』という作品を「感性のままに振る舞い暴力をはたらく主人公が、その天才性によって周囲から許され続ける物語」と要約してしまうのは早急である。
 そもそも私は、この作品の真の見どころは、主人公である響の振る舞いにはないと考えている。多くの場合、物語というものは、戦いやイベント、コミュニケーションを通じて登場人物の成長や変化を描くことに主眼が置かれている。しかし、『響』の場合、主人公はその天才によって「自分の感性に従って」生きることを許されているため、どんな場面でも響らしさを失うことはない。そのため、『響』においては、主人公に成長や変化といったドラマが訪れることはないのである。
 では、『響』の中では誰が成長するのか。それは、響に触れる周囲の人間である。
 例えば、響の先輩であり、文芸部部長にして大御所作家を父に持つリカ。彼女は、はじめは文学を知る者として響の良き先輩であろうとするが、その才能に触れてからは響をライバル視するようになるも、賞レースにおいて圧倒的な敗北を喫し、さらには響に自らの至らなさを喝破されて涙を流すと、最終的には響の天才を心から認めて良き理解者となる。13巻かけて全く変化しない響と比べると、リカのドラマの何と際立つことだろう。
 はじめに指の骨を折られたヤンキーにせよ、パイプ椅子で頭を殴打された作家にせよ、TVプロデューサーや大物漫画家にせよ、響と対峙した者はことごとく、自身の生き方を顧みたり、人生観を吐露してみたりする。誰もかれもが、ブレない響に触れることで、大なり小なり心を動かしていくのである。

少女漫画の分析  ~ ベジータの少女漫画性

 話はそれるが、今週のTBSラジオ『アフター・シックス・ジャンクション』の「10代前半の少女マンガ家特集」に登場した漫画家のきたがわ翔氏によれば、少女漫画とは「主人公がちょっと素直になる」物語なのだという(分かりやすい!)。
 バトル描写が中心の少年漫画が、「これまでよりも強い敵」を倒していくことに主眼を置くのに対して、少女漫画は心理描写に重きを置き、心の壁が崩れて「ちょっと素直になる」場面にカタルシスを抱かせる。だから、たとえば『ドラゴンボール』のセルやフリーザは、後に会心する必要がないし、実際、会心などしない。倒されること自体が存在意義であるからには、少年漫画の敵は力が強ければ強いほど、そして心が悪ければ悪いほど都合が良いのであって、倒されてから「ちょっと素直になる」必要はないのである。
 そんなわけで、『ドラゴンボール』の場合、例外的なのはベジータくらいであって、彼はこの少年漫画における、数少ない少女漫画的キャラクターだと言っていい。登場時点でこそ「サイヤ人の王」としてエリート意識を抱え、他人の命を顧みない極悪非道な敵として描かれていたものの、物語が進むとともに悟空に対して劣等感を抱くようになり、最終的にはそのライバル心を乗り越え、次のようにつぶやく。

がんばれカカロット… お前がナンバーワンだ!!(『ドラゴンボール』42巻113p)

 物語を通して「ちょっと素直になる」という表現に、これほど当てはまるキャラクターもいないだろう。そう、国民的少年漫画の登場人物でありながら、ベジータというキャラクターは作中最も少女漫画的であり、『ドラゴンボール』の真のヒロインなのである。

『響』はベジータたちの物語

 話を『響』に戻そう。『ドラゴンボール』との対比でいえば、『響』の主人公である響は、まぎれもなく悟空である。響同様、悟空の場合も内面の葛藤は描かれないし、肉体的な成長やパワーアップはあっても、精神的な成熟は決して訪れない。だから、『響』を読む際に、主人公である響の振る舞いにのみ焦点を当てた場合、そこには、目の前の敵をひたすら殴って倒していくという少年漫画的ストーリーしか見えてこないのである。
 しかし、響の周縁を眺めれば、そこには無数のベジータがいることが分かるだろう。誰もがそれぞれの仕方で響に挑んでいくものの、言葉や拳、パイプ椅子などで殴り倒され、才能に脱帽し、「お前がナンバーワンだ」とつぶやいて己の人生を歩みなおす。ここに広がるのは、いろいろあって、登場人物が「ちょっと素直になる」という少女漫画的物語である。
 以上のことから、漫画『響』を語るとき、「この作品の主人公は、天才であることを理由にあらゆる身勝手を許されていて、まるで成長しないじゃないか」などと批判する人は、この作品に広がる無数の物語に気づいていないことが分かる。
 この作品は、単に「身勝手な天才」を描いているのではなく、「身勝手な天才に触れて素直になった無数のベジータ」を描いた物語なのである。

平手友梨奈はベジータである

 ところで、『響』の実写映画版で響を演じたのは、当時欅坂46不動のセンターであった平手友梨奈である。この映画が公開された約4か月後、欅坂46の公式サイトは、平手のグループからの脱退を発表した。
 この脱退の経緯については様々に語られているが、私は、実写版『響』が、そのきっかけの一つではないかと勝手に考えている。演技を通して天才・響の身勝手な振る舞いに触れた平手は、これまでふたをしてきた自分の気持ちに「ちょっと素直に」なって、自分らしさを求めてグループを脱退した、というわけである。
 そう考えると、漫画『響』の主人公である響が圧倒的に悟空であったのに対して、実写版『響』の主人公・平手は、実は誰よりもベジータであったことになる。

 『ドラゴンボール』を読んだ人間の多くは、悟空に憧れや頼もしさを抱きながらも、最終的には悟空よりもベジータに感情移入し、その後の人生を応援したくなる。ならば、それと同じように、やはり私も『響』の響に憧れを抱きつつ、平手友梨奈の今後を次のように応援しよう。

 がんばれベジータ、お前はオンリーワンだ。

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