『潮が舞い子が舞い』に対する想いをどう表現すればよいのか
阿部共実さんの『潮が舞い子が舞い』が堂々完結した。
この作品について、公式HPは次のように説明している。
この説明文を帯などで読むごとに、私は、小さな違和感を覚えていた。
確かにこの作品は、「あかんたれ」な高校生が織りなす「愛しい日常」を描いた作品ではある。
しかし、この文言では、この作品の大切な“よさ”というか、読後に感じる“豊かさ”を取り逃がしているような気がしたのである。
そんなことを考えながら、完結を機に作品を改めて読んでいたところ、この作品の登場人物のひとりであるバーグマンが、刀禰くんにこんなことを言っていた。
このセリフに触れて、私は、あの説明文に抱いていた違和感の正体がつかめたような気がした。
『潮が舞い子が舞い』は、確かに「愛しい日常」を描いてはいる。
しかし、その内実は、単に素敵でキラキラしているだけではなく、むしろ二度と思い出したくないような自己嫌悪だったり、本人でさえ表現できないようなもやもやした何かだったりする。
そのように、誰にとってもよく分からない感情や、複雑で不明瞭な状況を「愛しい日常」という言葉で要約してしまうのは、なんだかもったいないのではないか。そうした出来あいの言葉で表してしまっては、それ以外に「こぼれ落ちるものがたくさんある」のではないか。
作品が完結したいま、そう改めて感じたのである。
実際、この作品の登場人物は、その見かけ上の台詞の多さに反して、大事な場面においては、自身の想いや感情を要約したり、直接的に表現したりすることをしない。
そのようにして言葉にするかわりに、彼/彼女たちは、級友の思いがけない姿に触れたときにはただ頭をかいて帰路につき、特別な相手と偶然二人乗りをすることになったときには、「ずっと続けばいいのに」とだけ口に出し、その状況を無言で噛みしめる。
「ずっと友達でいたい」と言ってもらえた相手には、「嬉しい」とか「ありがとう」といった言葉をかけるかわりに、「靴下脱いで駆け出して 光に照らされて燃えるようなあの海の中に飛び込みたいと思っています」と独白する。
同じ気持ちであることを相手に伝えるには、ただ、2人で同じことをする。
そのようにして、この作品は、「愛しい日常」を、言葉に頼ることなく描いてくれたのである。
ということで、『潮舞い』が完結して以来あふれてやまない私の想いにどうにか整理をつけようと、このたびキーボードをポチポチしたわけだが、結果的には、言葉では表現できない豊さがあることを言葉で確認するという、どうしようもない文章が出来上がってしまった。
本当はそんな自己矛盾をさらしたかったわけではなく、私もこの作品を読み、同じように心を震わせた読者の皆さんと「わーっ」と言って夜道を走りたかったのである。
ただ、このとおり、この作品に対する私の想いは、結局言葉では伝えきれない。
だから、名もなきこの感情は、ただ感じるがままに。
今日も私は『潮舞い』を読む。